とおりすがりNさん、大変遅くなってしまいました。1月30日付けの2つの
ご投稿にコメントさせていただきます。お待たせ?したわりにはたいした内容で
はありませんが。
ALMAさんにも問題を投げかけていただいているので、早く回答しなければ、と
思っているのですが。・・・(ALMAさん、こちらは見ていただいておりますで
しょうか。なかなか書くことができず申し訳ありませんが、いずれ回答はさせて
いただくつもりです。)
◆日本共産党の教育政策と私が支持をしている理由について◆
「教員バッシングの中で教員への締め付けを問題視してくれる唯一の党が共産
党である」から支持をするということを書きましたが、これだけが理由で支持し
ているわけではありません。12月11日の投稿で書いたように、教育問題だけで
なく、いろいろな分野について、他と比較すれば、最もまともなことを言ってい
ると私には思えるからです。共産党のやることが100パーセント正しくて、他
の政府や他の政党することが100パーセント間違っている、ということではな
く、「比較」してのことです。
また教育政策に限ったとしても、教員自身のことだけでなく、「少人数学級の
実現」「私学助成など教育予算の充実」「授業料値上げの反対」など、正面きっ
て取り組んでいるのは共産党だけのように見えるからです。
・・・もちろん、これらのことについて、本当はNさんが何度も指摘されているよ
うに、共産党の主義・主張は今までどうだったのか?という部分について、自己
批判を含めた検証や、その主義・主張の仕方の再検討の必要性ということもある
でしょう。「思える」「ように見える」ではなく、本当はここまで深く立ち入っ
た上で支持・不支持を決めるべきなのかもしれませんが、・・まあ、とりあえず、
「一票を投じる」という形の支持だけはやはり続けていこうと思います。そして
Nさんの指摘されている部分について、少しずつでも考えていこうと思います。
◆共産党、「民主勢力」の運動について◆
さて、共産党、「民主勢力」の運動についてです。私自身は共産党内部の人間
ではないので実際にはよくわかっておりません。つまり、「外」からしか見てい
ません。そんな人間にとやかく言われたくない、という「内」の方もいらっしゃ
ると思いますが、あえて「外」の一支持者の意見として見ていただければ幸いで
す。
Nさんの「政党運動は自己満足のためにやっているわけじゃないということを
わきまえるべきでしょう。」という部分は、私の12月11日の投稿で「共産党
には、自己満足と揶揄されることのないよう頑張ってほしい」と書いたのとほぼ
同じ考えだと思います。
「そんなこといわれるようなことはない!我々の運動の方向性に非はない。問
題はマスコミの偏向や敵対勢力からのいわれのない誹謗・中傷なのだ」といいた
くなる方もいると思います。そういう部分があることは私も知っています。許せ
ないこともたくさんあるでしょう。「共産主義」を標榜している北朝鮮の存在の
こともあり、今は日本共産党にとって、かつてないほどにつらい時期だと思いま
す。
しかし、だからといって、一つの「プロ政党」として、どんなに頑張っていて
どんなに正しいことを言っているとしても、現実に支持が広がっていない原因
を、自己批判的に追究し、それに立ち向かっていっていただきたいと思っていま
す。
そのことは決して「日和見主義になれ」ということではありません。12月11
日の繰り返しになりますが、私自身も一人の教員として、どんなにうまくいかな
いことを「生徒が悪い」「親が悪い」「国の教育政策が悪い」と他のせいにした
くなるときも、現場では「プロ意識」を持って、自己満足な授業や教育に陥るこ
となく、自己批判的、自己改革的な視点を持って、それに立ち向かっていくよう
にしていきたいと思っています。もちろん、それは教師としての日和見主義者と
なる、つまり生徒や親、あるいは国の政策に「迎合」していく、というつもりな
のではありません。(まあ、こちらも現実はいろいろ大変ですけどね。)
いずれにしても、私は胃微力ながらも日本共産党を応援しているわけです。
「世直し」のために、過去から今にかけて、いろいろ努力されていること自体に
は敬意をはらっております。内情を知らない者の余計な発言かもしれませんが、
日本はもう取り返しがつかなくなるのでは、という小泉政権下での諸政策のも
と、伸び悩んでいる日本共産党の大躍進を期待してのことです。
◆憲法改正のことについて◆
憲法改正のことについて、共産党などがどう反対しても、もう改正は現実のも
のとなってしまいそうです。そのようななかでは、Nさんの言われるように、
「変えるべきところは変えますよと議論に入っていくほうが良い」という姿勢で
「重要なのは文言が変わっても9条の趣旨を残すこと」という戦略で話し合いに
入ることしか残された道はないのかもしれません。例えば、天皇制の是非は別問
題として、とりあえず今後も憲法上でも続けていく上での話で考えた場合、皇位
継承を「男子」に限るとしているよりは、女子でも継承できるようにしたほうが
よい、ということも言えるでしょう(ただ私は、このことが9条の改正とセット
にされ、それをカムフラージュする役割として利用するのではないか、という危
惧も感じます)
しかし、一つだけ思うのは、「アメリカがつくった憲法だから」ということに
はこだわる必要がないのでは、と思います。それは、改憲論者が、「根本的に憲
法を変えてしまおう」ということの大義名分として、私たち国民に、その必要性
をあおる根拠にしていますが。日本国憲法が英語で書かれているのならともか
く、れっきとした日本語で書かれているわけですし、これは誰がどうつくったと
いうことよりは、「人類普遍の原理」として継承していくべきものだと思いま
す。そしてこの憲法を60年も保ち続け、核兵器も持たず、戦争をしてこなかっ
たこと自体を、日本は誇るべきだと思います。私は少なくとも、前文と9条だけ
は変えてほしくありません。
・・・しかし、おそらくこのままいけば、「いつか来た道」に戻っていくんで
しょうね。「戦争はよくない。平和が一番」なんていうことを授業で少しでも
言ったら、あるいは、教材の一部にそのような文が書かれたものを使用したら、
もう逮捕されるようになってしまうのでしょうか。どこかの新聞(一般紙)の風
刺漫画に、「世界遺産に登録か?憲法第9条」などと書かれていましたが、消え
てしまうのなら、本当に世界遺産に登録してほしいですね。それだけ価値のある
ものだと思います。「あたらしい憲法のはなし」もあわせて、登録してほしいで
す。
◆国民の支持を得るための教員のあり方について◆
教員の不祥事のニュースが、「まともな教育をやっている真面目な先生の立派
な教育実践の『お話』がその10倍ぐらい新聞紙上をにぎわせなければならない」
という指摘、ありがとうございます。本当に尊敬すべき素晴らしい方で、頑張っ
ている先生もたくさんいるんです。
さて、まず、不祥事に対して、教師という立場上、明確な不祥事については、
その処分が厳しいものがあって当然だ、ということは認識しています。事故をお
こしていなくても飲酒運転をしただけで懲戒免職となった教員もいるようです
が、そのくらいモラルを国民から求められても仕方のない立場だと思います。以
前、警官が容疑者の懐から1000円を抜き取って懲戒免職となった、というこ
とと同じことだと思います。教員も人間ですから、欠点も含めた「人間味」が
あってもいいですよね、といいたい部分はありますが、「絶対にしてはいけない
こと」と「人間味」は明確に区別しなければ、と感じます。
では、認めてもらうためにどうするか。教員の行き過ぎた締め付けに対し、教
員自身が政府の批判をするの逆効果?・・・たしかに、これだけバッシングを受
けている時代ですから、ただ「政府がおかしい」と叫び声を挙げても「教員の方
が悪い」となってしまうのでしょうね。そんなこと言ってる暇があったらちゃん
と仕事しろ、と。そのためにも、頑張っていることをマスコミにどうアピールす
るかというのも一つの方法かもしれませんが、正直、どうしたらいいかわからい
ません。
とにかく、教員自身の処遇改善の部分は、教育問題の中でも一番国民の理解を
得にくいでしょうね。半分あきらめの気持ちですが、今は耐え忍び、いつかわ
かってもらえる時代が来れば、というところです。少なくとも、是非の判断は別
として、現場がどういう状況になっているか、という「事実」だけは教育関係者
以外の方にも知ってもらいたい気がします。
ところで、学校教育が国民を支持を得るために、Nさんのご指摘と全く関係は
ありませんが、一つだけ思うことがあります。それは、教育活動において国民、
生徒、親の意見を耳にいれることは当然のことではありますが、教員一人一人
が、明確なビジョンと「主体性」を持って教育活動にあたることが、最終的には
国民の支持・信頼につながっていくのではないか、ということです。
例えば、ある会合で、ある学校の教頭先生が次のようなことをおっしゃってい
ました。『最近の日本の教育は、生徒の「興味・関心」にもとづいた「好きなこ
と」を伸ばすことばかりになっているが、本来、その生徒の持っている、隠れた
部分も含めた「能力」を伸ばすことこそ教育の使命なのではないか』・・・つま
り、一見「興味・関心」「好きなことを伸ばす」ことは耳障りよく聞こえ、国民
や生徒に喜ばれるかもしれないけれど、その問題点がいまいろいろ出てきたわけ
です。「好きなことを伸ばす」こと自体を否定するわけでなないけれども、その
場で生徒を喜ばすということに終始するのではなく、長い目で、児童・生徒の
「能力」を伸ばすという教育の根幹的使命を見失わずに取り組むことが、信頼に
つながっていくことになると思っています。このようなことを、国の教育政策と
しても見失ってほしくないと思います。
◆基礎学力についての議論について◆
このことの議論については、最終的には、「学力とはなにか」という部分の問
題になっていくと思います。その捉え方によっていろいろな意見もでてくるで
しょう。その点で、樹々の緑さんも取り上げられた岸本裕史先生著の「見える学
力、見えない学力」などの書籍は大変興味深いものがあります。私はまだよんで
いませんが、続編もすでに出ているようですね。・・実は先ほど購入しました。
これから少しずつでも読んでいこうと思います。
岸本先生は、著書で、読み、書き、計算の重要性を述べておられます。さらに
続編では、子どもの学力低下が問題になるなか、「読み、書き、計算」こそが学
力の基礎・基本であり、その基礎学力は、生きる力の源泉であることをあらため
て提起されているそうです。将来、総合的・創造的に物事を考えていける力の源
となる基礎基本となる勉強―読み書き計算そのものの発達的意義を広く世に知っ
てもらいたい、ということで、続編を出されたそうです。・・・この点で言う
と、Nさんのお考えと同一ですよね?
さて、この掲示板上の一連の教育に関する議論の中で、Nさんは政府が民主勢
力に「擦り寄った」政策を展開してきて失敗した、ということを何度も主張され
ておりますが、部分的には本当にそういうところもあったのかもしれません。
(私はよくわかりません。)そして「民主勢力」側が自分たちの主張に一点の誤
りもなかった、という態度でいるのなら、議論を深めていくことはできないだろ
うし、よりよい未来は見えてこないでしょう。
しかしやはり斉藤貴男氏も指摘されているように、ゆとり教育は、「選別」の
ために利用された部分の方が私は強い気がします。(理由は前回書きましたので
ここでは省略いたします。)なお岸本先生も著書でそのように述べておられま
す。(この点については、前にも申しましたように、私自身、事実の把握が明確
でなく、きちんと検証できているわけではないので、これ以上はこの件について
は主張しないようにしておきます。)しかし、行き過ぎた総合学習の導入など
で、想像以上に基礎学力は低下し、政府は多数の従順な国民、労働力づくりにも
ならない、と気づきはじめただけでなく、一部の優秀な人間になるべき者です
ら、予想外に学力が低下してしまうのでは、というあせりを感じているのでしょ
う。
ゆとり教育の最大の失敗は、「個性の尊重」という耳障りのよい言葉のもと、
「できないことも個性」のような視点があったことではないでしょうか。確か
に、学力だけで人間の価値ははかれるものではありません。授業でも、勉強がで
きる、できないで人間の価値が決まるわけではない、ということを話すときもあ
ります。しかし、「全生徒への基礎学力(あるいは体力)の保障」は、教員の責
務、ということを越えて、国の責務だと思います。(もちろん、Nさんの言われ
ているように、そういうスローガンをたてて満足するのでなくその中身をきちん
と検証して実践していく必要がありますが、)
・・・それは何でも一緒であればいい、という平等主義とは違います。ゆとり教
育の表面上の名目であった100教えるのをやめ全員が平等に50わかるようにす
る、という平等主義(実は選別教育であった可能性が高いが)ではなく、最低限
100が必要なら全員100わかることを目指し、その後200、300まで達
したいと思う人は、家庭環境などに関係なく、努力次第で誰でも達することがで
きるような環境づくりをすることだと思います。
なお、ここでいう、必要な「100」とは、具体的学習内容として、どの範囲
までなのか、ということについては、「学力とは何か」という議論と同様、十分
に論議されなければならない命題だと思います。「100」に到達するに足る、
必要な「詰め込み」もあるのかもしれないけれど、だからといって、詰め込みま
くればよい、ということではないはずです。この二つの議論はとても深く、根源
的な問題です。そう簡単に答えることはできません。しかし、それらは、日常の
教育活動と直接に結びついているわけですから、私自身も、文献研究などによる
理論と、現場での実践をあわせて、研究をしていきたいと思います。
◆「論争において相手の説を批判することより、自説の有利さが理解できるよ
うに展開したほうが支持を得られる。つまり、相手をやっつけても実は問題は解
決していない。」
について◆
大変興味深い視点ですね。相手の矛盾点を的確に指摘するなど、必要な批判と いうのもあると思いますが、それよりは自分のよさをアピールすることの方が大 事だ、ということは、常に心に留めておきたいです。つまり、相手より「上」に なるために、相手を蹴落とすのではなく、自分が「上がる」わけですね。