やっと会話が通じた感じですね。
> 小柴先生批判も自由ですが、その真意ももっとしっかり書いていただく必要はあ るでしょうね。高校生さんからの批判にもありましたように、しっかり勉強しようと 思っている子供達には小柴さんの言葉はずしんと響きますし、樹々の緑さんの言い方 にむしろ傲慢さを感じることでしょう。
これは何のことでしょうか? 私はこのサイトへの投稿で小柴先生を批判した
ことはありませんし、私の前投稿のどこが、「傲慢」に感じられるのでしょうかね。
かっこ付きにした「訓練」という比喩ですか?
なお、小柴先生は、確か、「スーパーカミオカンデ」に莫大な予算をつぎ込むこと
の意味に触れた発言で、基礎学問の重要性について力説され、同時に、基礎教育をお
ろそかにしないよう訴えていたように記憶しています。その主張には、肯ける点が多
かったように記憶しています。
同じようなことは、確か、堀尾輝久先生が「天文学の学問的意味」というようなテー
マで、どこかで話しておられたように思います。
> 勉強は面白いことなんだということなのだと思いますが・・。言わば究極のゲー ムですよ。
ちょっと感じ方は違いますが、一定年齢層への導入として、このような感覚で
指導することは、有効だと思います。
ただ、私がいつも思っていることは、勉強の楽しさを「ゲーム感覚」で捉えると、
「他者を蹴落す楽しさ」もその中に入りうる、そして、その行く末に、一流大学を出
て、複雑な行政に無知な「下々の愚民」を支配することに快感と「日本を背負って立
つ使命感」を覚えるような人格ができはしないか、ということです。
その意味で、「教えるとは、希望を語ること、学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」
という(ルイ・アラゴンの)言葉が一人一人の胸の中にしっかりと収まるようにする
ことが、基礎教育を始めすべての教育の目標であるべきだと考えています。その「楽
しさ」は、直接的には苦痛さえ 伴うことがあるけれど、深い「人生の楽しみ」をも
たらすはずです。
> 言ってしまえば『詰め込み批判』が勝ったわけで、いざ、批判勢力が語っていた 理想が実現してみると、その実施が如何に難しいかということがわかってきたのでは 無いだろうか
これは、はっきりと違うと思いますね。従来の「詰め込み批判」の論者たちは、
同時に「基礎教育の充実を」と訴えていたはずなのです。
それを、旧文部省の寺脇研(?)氏らがうまく逆手にとって、自分たちの都合のよい
「ゆとり教育」の実現に利用してしまった、と評価すべきではないでしょうか。もち
ろん、このようにつけ込まれる弱点がなかったとは思いませんが、とくに共産党系の
人たちを指して(そうしていたのは、あなたではなかったですか?)「基礎教育の重
要性を看過した」とは言いにくいだろう、ということです。
とおりすがりNさんが、単なるスローガン的な運動では、もはや運動を発展させる ことはできない、とおっしゃっていることは、その通りだと思っています。