「樹々の緑さんへ」を大変興味深く、拝読しました。とても示唆に富む投稿でした。読後の所感を述べさせてもらいます。
人間は働いて、衣食住を獲得していかなければなりません。教育は、そのための術を子供たちに伝授する社会的公器だと思います。その術は、広範囲にわたりますが、議論を単純化するために分類すれば、学力と人間性に尽きると思います。「人間性」は抽象的な言葉なので、衣食住の獲得のために必要不可欠な他人との良好な関係を実現するためのものと述べておきます。例えば、さんざん人を傷つける言動をとる者は、どんな職場でも、成功しないでしょう。
さて、「学力の向上」について。私は、ロンドンの大学に滞在し研究を行っていますが、その活動の中で、授業をもつことがたまにあります。その大学は、とても国際的で、発展途上国から、多くの留学生を受け入れています。昨年の9月、新大学院生向けの「経済学のための数学」という講座の教壇にたちました。そこで、日本でいえば、大学教養課程の経済数学を教えました。
愕然としました。学士号をもっていながら、一部の学生、特に、発展途上国出身の学生の数学の素養は、絶望的に低いのです。彼らは、母国から奨学金を得ていることが多く、いわば、母国では十分な教育を受け、優秀な成績をおさめているのです。しかしながら、彼らの数学上の知識は、かつての日本の高校生と同じ、あるいはそれより下です。ここで問題なのは、数学の知識の多寡ではありません。問題なのでは、彼らが、何かに興味をもち、それに必要な学問を学ぼうと思ったまさにその時に、学力のなさにより、圧倒的な遅れをとり、それゆえに、その学問を十分に学べないという不幸な事態が生じる、ということなのです。実際、私の試験をパスできなかった者は、希望のコースに進めませんでした。これは、不合格になった学生の個人的怠慢のせいではありません。母国の教育制度が、十分な学力を、彼/彼女につけさせていなかったことが原因なのです。
私は、詰め込み教育に賛成です。なぜなら、小学校から高校までの詰め込み教育は、若年者が、上記のような不幸な事態を回避することを可能にするからです。子供たちが、何かを学ぶとき、実際的・学術的意義を認識できるわけがありません。実際、例えば、算数・数学の知識を詰め込んだところで、日常生活で折りにふれて役立つわけではありません。しかし、ある子供が、それなりに大きくなり、例えば、コンピュータに興味をもち、それに関連する仕事をしたいと考えたときに、彼/彼女は、まさに、算数・数学の知識を絶対的に求められるのです。もし、それがなければ、上記の例で、希望のコースに進学できなかった新入生のように、自分の夢の修正を余儀なくなれるのです。
だからといって、「学力の向上」は、「人間性の低下」を求めません。小学校から高校までの教諭たちの仕事は、「学力の向上」と「人間性の向上」に折り合いをつけながら、その両者を実現することだと考えます。後者のためには、「温かい」先生が必要なことは、自明なことのように思えます。
同時に、こうした仕事の性質によって、一支持者Wさんが報告されたような形での賃金決定方法が、まったくナンセンスであることが、強く示唆されます。なぜなら、校長は情報弱者だからです。「学力の向上」は全国試験のクラス平均点といった客観的な指標によって計測できるかもしれませんが、「人間性」のクラス平均点を算出するためには、独自の調査が必要であり、それを行うよう校長は動機づけられていないのです。
私は、学校に数人、その調査だけを担当する教諭を設置すべきだと思います。もちろんそのためには、通報制度の確立が必要だと思います。つまり、親が、担任の先生を介さず、子供の情操の発達についての良い情報・悪い情報をいつでも、その担当者に通報できるようにしなければなりません。これにより、例えば、情操に問題のある生徒がいた場合、その親が、あるいはその子供から何からの被害を受けている生徒の親たちが、その担当者に報告することでしょう。その情報をもとに、その担当者は、担任の先生に、必要な措置を求め、その問題解決の度合いを、校長に報告することができるのです。こうして、はじめて、校長は、その担任の先生がなした、生徒の「人間性の向上」への貢献を評価することができるのです。
ただ、その担当者が、なまけず働くかが、別途問題になります。その担当者の反応に不満がある親は、地域の教育委員会に通報し、それが、「自動的に」校長のもとに行くようにし、その不満通報の回数によって、その担当者の評価、のみならず校長の評価が、決定されるようにすれば、その担当者は規律付けられ、また校長は、その担当者の働きぶりに興味をもつことでしょう。校長にしてみれば、何十人の先生を監視するよりも、その数人の担当者を監視する方が、ずっと簡単でしょう。
私が示した試案は、教諭たちの自主性をそぐものではありません。つまり、「型にはまった学校」を求めるものではありません。上記2つの目標は、義務として与えられていますが、それをどうすれば達成できるのか、その手段は、各教諭たちに委ねられているからです。そして、成功すれば、教諭達は、仕事の達成感のみならず、生徒・保護者たちからの良い評判、そして高い賃金を得ることができるのです。さらに、副産物があります。それは、教諭の不祥事が、明るみになりやすくなることです。生徒、保護者達たちは、教諭不祥事を通報する制度的サポートを受けています。そして、上記の担当者、そして校長は、その問題教諭を擁護するのではなく、監視すること、あるいは追放することが自らを利することになるのです。
学校関係者の動機付けをうまく調和させているという点で、自分の案には、一定の説得力があると、私は自負しています。しかし、それが、なかなか実行に移されないことも認識しています。なぜなら、(仕事の醍醐味は増すものの)責任や仕事量が増えることを忌避する教諭、不祥事の早期発見に不都合を感じる教諭にたちにとって、この案は、とんでもないものだからです。
一支持者Wさんのご見解は、いかがでしょうか。