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一般投稿欄

「奥田氏」論議に関わるエッセー

2005/03/16 人文学徒

 3月1日付け銀河さんの投稿などの一連の論議を読んで初めにその相当きつい表 現に反論を書こうと考えた。しかし考えてみるとこの文章は、「無党派常識人」 さんが「寄らば大樹の陰さんおやめなさい」と投稿したものに対して、「陰」さ んを擁護しようというものだから、当然きつい表現にはなるよなーと、考え直し ていた。すると当然即座に、そう言えば僕はこういう議論の発信者の一人だった と気づかざるをえなかった。長壁さんを無視しようと呼びかけたのだし、「陰さ ん、すこし慎んで欲しい」と書いたのだから。本当にそもそも、僕にとっての長 壁、陰さんとはどういう存在なのだろう、こんなことを改めて考え込んでいたも のである。そしてさらに、そもそも経団連会長の奥田氏とはやはり僕にとってど ういう存在なのかなということも、もう一度改めて考えてみざるを得なくなっ た。いちおう、「同じ人間」と考えたからだ。まー「人間」において「敵」とか 味方ってどんなものであり、それぞれに対してどういう態度をとり、どう話し合 うべきかという問題ということなのだろう。「この階級社会の真っ只中の、しか も第3次世界戦争が始まりかけた真っ最中に、右翼日和見主義者がまたまた甘っ ちょろいヒューマニズムを説き始めた」などとして読むのを止めるのではなく、 まー一人の人間が喋っていることとしてこのままお付き合い願いたい。

 以上のように出発した僕の実感的問題意識はいくつかあるように思われた。 1、敵とは何か。彼らともどこかぎりぎり共有点はあるような気がするが。そし て、それも踏まえた闘いということ。2、それ以外の「僕がつい反論したくなる ような『味方』」ってどんな人々で、彼らとはどう手を組んで行きうるかという こと。3、顔の見えない討論の注意ということ。

 今後の投稿に際して僕自身の言葉を規制するためにも、以上をより易しい後の 方から考えてみたいと思う。

 まず、3である。ある人と面談の会話で、言葉自身だけが果たす役割は3割程 度だとか聞いたことがある。つまり、言葉だけに捉われるのは、青二才だという わけだろう。言葉に付随する口調、表情、身振り、物腰、そして周辺情報収集な どを総合判断しながら「何層もに」相手を捉えることができるのが「人が分かっ た奴」ということらしい。つまり投稿討論のような言葉だけの世界では、「敵と 味方」、「ちょっと敵の肩を持てば敵」、「ちょっと味方を擁護すれば味方」と なり易く、「世の中が分かり始めた青二才よろしく」しょっちゅう無駄な摩擦を 起こしていると言えないだろうか。普通、できるだけ簡潔に書こうとするそうい う文章というものの中では、テーマとしての言葉の上で全く対立する二項のその 中間の色合いをわざわざ書くこともないであろうし、面談ならすぐに見て取れる 「マナジリ決して」や「この程度のことは許すという微笑み」も全く伝わらない のであるし。それにまた、単純な二者面談と違ってこの投稿欄は不特定多数が もっと多く読んでくれるということを、それぞれの判断力で願ってもいるはずな のだから、「そのためにもそんなこと言うな」といってまた敵を作ってしまった りもする。もちろん逆に、「ましな討論なんて少数精鋭が当たり前。こんな完全 管理社会じゃそれ以外に何がある。怒りまくるぞー。いつか人々を揺り動かせる 時勢が必ず来るはずで、その時に備えて。」という論者もいることだろうけど。 いずれにしてもまーメイル討論とは、何重にも難しいことである。とこう書い て、まずこういう難しさを押さえて語ることが「生産的メイル討論の第一のやり 方」と言えるのではないかと言いたい。

 次にそういう場所では「味方への反論なら名指しの抽象的なものはなるべくや めて、論議事項自身でで語ろう」とか、「この人、読者を意識して相当逆上せて るけど、言っているのはこの程度のことだろう」とか、「みんなが言っているよ うに、異論者が幅広く同居しているところだからこそ懐が深いのだし、また『新 鮮』でもあると評価しとこう」とか、さらには逆にちょっと冷めて「しょせん当 然言葉の世界だ。各人の言葉への裏づけは取れない世界なのだし。誠実につきあ いたいが、当然僕の行為、全人格について言われているわけではない」などなど と思いつくが、これらはこの「第一のやり方」の応用ということになるだろう。

 次にさて2番目の問題。「味方の中の『敵』に実質等しいと感じ、そう取れる 言葉(先に述べたようにこれは、2者面談ならおこりにくく、多数の第3者に対 してどういう働きをするかをそれぞれが考えるから敵のように見ざるを得なくな るという場合を含むのだろうが)」の見方、それへの対処のし方だ。これはむし ろ「その相手が第一の敵をどう表現するか」というものにことの本質があるよう な気が、僕はしている。だからここですぐに、奥田氏自身についての僕の見解を 語ることにする。

 まず、奥田氏は彼のどの層を取っても、全面的に敵か? あるいは「彼は何で あるよりもまず敵である」と言いうるのか? 僕は、これが違うと言いたい。確 かに「残念ながら」彼はこの世界で、月収200万円社会を作った元凶に最も近 い人間の一人だろう。そして、そのことを通じて無数の人々を世界でも有数の日 本の自殺増加率へと招来した元凶の「日本の第1人者」と言うこともできよう。 さらに、「これらを余人よりはるかに能動的にやってきた1人」であることも間 違いあるまい。しかし誰でも知っているようにこれは、彼がいなくても代わりが 出てきたという「役割」、「立場」というものなのではないか。トヨタがやらな ければホンダかどこかがやっただろうということも含めて。真の元凶は、資本主 義社会という世の中の仕組、その猛烈な不均等発展から有り余る資本投下場所が なくなってしまったというそういう「とてつもない疎外の仕組」であって、彼は こういう仕組の中でたまたまいくつかの関門を乗り越えて頂点にたどり着いたと いう、そういったことの一人の体現者に過ぎないのではないか。彼自身も初め は、大学卒業後にたまたまついた立場から猛烈に努力を始めたむしろ純朴な青年 だったはずである。そして、ここに投稿する多くの方々が、1960年前後の彼 と同じ立場に身を置いていたとしたら、同じような人生を歩み始めなかったとは 言えないのではないだろうか。なにしろ現代社会は、身分がある封建社会とは違 うのである。可能性としての「権利」の点で過去の身分制社会などとは全く違う 社会が現にあるのだと僕は思う。(両親の財産とか、教育程度、教育課程での出 会い、さらにはいろんな偶然等、誰にも平等に機会があるなどとはまだまだ決し て言えないのだけれども。)だからこそ現に僕が、奥田氏についてこんな論議を していられるのだと考えている。そしてまた、これはみんなが十分に意識したい ことだと、僕は考えている。

 さて、以上の内容を念頭において、カール・マルクスは「資本論」序文のあの 有名な言葉を書いていたはずなのである。本文が手元にないので要約すると、 「この本は、資本家をけっしてバラ色には描いていない。しかしそのことは、彼 の立場への告発なのであって、彼個人への言及ではないということを是非覚えて おいて欲しい」と。それにしてもあの「資本論」でどういう意図、内容、「人間 認識の層」でもってマルクスはこんなことを書いたのだろう。非宗教的人間論を 第1のテーマとし、「類的人間」を説いたフォイエルバッハの第1の後継者たる マルクスの面目躍如たる表現だと僕は思うのだが、これについては以下の解釈し かないのではないか。

 奥田氏ももちろん、一人の人間である。人の子であり人の親として、たった一 度のこの生を受けそれをいまなお受け渡し中の身でもあるはずだ。また、この一 度の人生を充実させ、納得するものにしたいとも、人一倍考える性質でもあった のではないか。他方彼を観る我々の方のことだが、どんなに世の中に痛めつけら れ、その全部が嫌いになったとしても、彼とも繋がる何かを放り出してはいけな いのではないか。それを放り出したとしたら、放り出したその人のどんな言葉も 意味がなくなるというような、そういった大切なものがこの時代に生まれ育ちつ つあるのではないか。それはどうも上手く言えないけれど、「全ての人とどこか で通い合っているのでなければ、誰とも通い合っているとは言えなくなる時も来 る」ということではないだろうか。そしてその危機の一歩手前が、「たった一人 だが理解してくれている人がいたから、あの時救われた」という、まー全ての人 の人生いつも断崖絶壁のようなところにいるという、そういうよく見る例なので はないだろうか。ヒットラー、スターリン、文化大革命時の毛沢東、そして金成 日や多分あのジョージ・ブッシュの存在というものも、仁義無用の人間不信の仕 組の中の権力というものが結局そこまで行ってしまったという、敢えて言うが 「仲間としての人間が『僕も含めて』、社会の仕組の中では陥ることがありうる そういう深い深淵」という結末なのではなかったろうか。僕は変革の側がこう いった人間論を体現していくのでなければ、この世の中はもう変えられないと、 そんな気がしてならない。またちなみに、反マルクス主義の側が「マルクス主義 は憎悪の哲学である」とよく言うのであるが、それは以上のような機械的階級闘 争人間観という点をついていて、それが的を得ていると言いうる場合もあるので はないかと、そんな気もしてならない。またさらに、キリスト教徒とか宗教者で あれば、「この感じ」については非常に敏感で、すぐに匂いをかぎつけるという ようなものである。それは彼らの信仰の根幹に関わる部分が含まれているからだ と僕は思う。

 僕としては以上の論議で、さしあたって人間たちの中に何か抽象物としての人 間性のようなものを見よと言いたいわけではない。全ての人間の中にそんな人間 性があると言っているのではない。まず全ての人間を現に疎外している仕組とい うものがあって、たった1度の人生を皆が必死に過ごしているという「現実」が 意識しようとしまいとこの仕組の中で翻弄されているということを言いたいだけ だ。第一の敵はこの仕組だろう、と。そして、奥田氏がいなくても替わりは出た という性格のことに関わって、今となっては大変能動的、意識的ではあれやはり 成り行きもあってそうなってきたという面が中心の一人の人間を「全身悪魔」の ように言うそんな声は聞きたくはない、と。そんなやり方は唯物論的に観たら、 仕組の罪を軽くして、人々の目をそれから逸らせるようなものでもあると。彼の 現実の全てを彼の完全な自由意思の結果のように言う言い方は不当でもあると。 僕が別に頼まれたわけではないが、奥田氏のためにもこの社会変革をしようとし ていると言ったら、果たしておかしいだろうか。そして、そう理解しなければ社 会変革などと言うな、どうせ成功しっこないと、こう言ったら誤りになるだろう か。

 なおここで一言お断りをしておくが、以上の発言は、奥田氏の何か具体的な言 動そのものに大いに問題があると感ずる時、「その言動自身」を批判するなと 言っているわけではない。ましてや、堤義明氏のように犯罪が分かった時に、 「その事実を」批判するなと言っているわけでもない。そういう批判にちなんで はそれをいたずらに抽象化して「全身悪魔」のように語ろうと手ぐすね引いてい るというようなその姿勢というものが、真の敵を見誤らせるものだし、人々の気 分にも合わないと言っているだけだ。

 さて、こう理解したとして一体、何が変わってくるというのか、仕組と闘うと いうことはやっぱりその代表者を憎むべき敵とするということだろう。そんな糾 弾が聞こえてきそうだ。違うと思う。まず第一に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎 い」という態度ばかりでもないだろうと振る舞うというだけでも、全く違う。奥 田氏が子どもを亡くして泣いていたとしたら、やはり泣けるというのが、この時 代の普通なら当たり前じゃないだろうか。トヨタの自殺者を身近に持つ方々に は、さすが僕もこうは言わないけれども、こういう態度が当たり前という人々が 現在既に多数派であり、今後更にそうなっていくと僕は考える。だから、ある人 間について憎しみしか感じられないような言動には、人々が眉をしかめるのだと 思う。そして何よりも、こういうやり方では僕が望む社会変革はできないと思う から、僕はこれに反発し、現在こんなことを書くという努力を払っているという わけだ。

 奥田氏への観方いかんは当然、いわゆる「プチブル」への観方にも関わってく るだろう。奥田氏個人を「そんなには」憎まず、しかも「仕組への闘いだけが人 生じゃない。本も読みたいし、毎日1時間ぐらいはランニングもしたいし、また ピアノの腕も上げたいというように、一度の人生、『真善美』の欠片ぐらいは求 めたいではないか。仕組への闘いを忘れたわけじゃないけれど、それはもう少し ゆったりやろう。それに、『真善美』の匂いもする社会変革じゃなきゃ、もう成 功しないという世の中が来てるのじゃないか。」とやっているような人々に対す る観方に。

 さて、こういう人々に以下のような言葉を投げつける必要がなぜあるんだろ う。「暖房の効いた部屋でぬくぬくと」、「労働者の感情抜きの空理、空論」、 「慇懃無礼な右翼日和見主義」、「かったるい良心(ご自分も含められて言われ ているのだが)」などと。ましてや、第3次世界大戦が起こり始めたとして、な のにそれに対してほとんどの人が眠っているのだと断じて、そこから大部分の人 間を「ゆで蛙」と命名するに至ってはなんと評したら良いのだろう。ご自分の認 識は常に絶対に正しくて、他は馬鹿ばかりと断定するも同然の天上天下唯我独 尊。そんな馬鹿連中のためでなく、ご自分の怒りのために世の中を変えたいと言 わんばかりだが、真意が何か文面自身とは別の所にあるとすら僕には思われるよ うな物言いである。またここには時に、年収1000万もある所帯は憎しみの対 象ででもあるような投稿も見受けられるが、夫婦がある時期苦労して「専門職と しての妻」との共働きを維持し続けることができた50代の所帯なら通常最低そ の1.5倍以上にはなるのではないか。それについて、「そういう人物たちに対 しては、客観的には搾取をしているのだという事実側面をばあくまでも衝いてやる べきだ。ほかって置けば敵以外の何者でもないはずである」というふうにでも対 処されるお積りだろうか。

 このように、一致して「仕組」に対するべき我々がそれを「プチブル」も含め た個人の罪のように言いあい、人間への怒りと懺悔を掻き立てあってやまないと いうようなやり方は、平和革命に導きうる大きな統一戦線などはなから眼中にな いとするようなものではないか。だとすれば、「絶対的なような激しい怒りこ そ、それが燎原の火のように広がっていくべき時が必ず来るものだ。プチブルは その時の強力の対象であるのみである」という一揆主義「理論」にでも頼る以外 に道はなかろうと考えざるを得ない。こういうやり方でのそんな機会は永久に来 ないだろうと僕は考えているのだが。

 最後に、僕がいつも書く呼びかけをします。

 こんなことを書いた最大の動機は、やはり以下のもの、より多くの方々がここ に集って欲しいということです。最近、少々「左の左」諸氏の投稿が多いよう で、また全体としての投稿数も減っているように感じていました。それへの僕な りの対処の積りです。ちょっと「新鮮」にしたかった。あらゆるタイプの投稿が どんどん出てくることを皆さんにお願いしたいです。また、みんなで、より多く の新しい方々にここを紹介しあいましょう。なお、左の方々にも僕のこういう意 図を汲んだ対応を願うものです。