日本三大名園のひとつ、石川県金沢市の「兼六園」に行かれた方は多いと思う。
行った事のない人でも、観光雑誌などで、「雪つりの松」や、日本庭園を象徴する「池に映える灯篭」が写された絵葉書などで「兼六園」は有名である。
十数年ぶりに金沢の町を訪れ、兼六園公園を一巡りしたところ、公園の奥に隣接する「石川護国神社」の立派な鳥居があった。
しかしよく見ると、鳥居の奥横に昔存在しなかった塔状の大きな建造物が目についた、なんと一番上に「日の丸」の赤印を置くその塔には、「大東亜聖戦大碑」と書かれていた。
もう「ヒエッー」である、オズオズ周りを伺いながら、その有に高さ12,13メートルはある塔に行くと、後ろには「八紘為宇」と彫り込みがあり、周りは建設趣意書と賛同人の名前が都道府県別、国別などに分けられ刻み込まれていた。
建立の主体は「日本を守る会」となっており、建立までの経緯なども書かれている、そしてどこかで見たような右翼知識人?の名前があったり沖縄の「ひめゆり学徒隊」や「少年鉄血勤皇隊」なども書かれていた。
「エッなぜっ」てよく見ると、この碑にはお金を出した賛同者以外に、運動の側で相応しいと思った団体名などを、恣意的と言うより勝手に書き入れたらしい、もうビックリである。
この日はカメラなど持っていなかったので、ただ驚き慄いて「見物」しただけだったが、塔の前には「小林よしのり」と「よしりん企画」という銘の小さな賛同の記念塔もあった、さすが護国神社というか周り一帯が戦争賛美の碑などで一杯、その殆どに「皇紀何年」と書かれたりしていた。
帰宅後さっそくインターネットで「大東亜聖戦大碑」を開いてみると、この碑の曰く因縁ぶりが判明した。
この碑の発端は1995年今から10年前国会で「戦後50年決議」として「植民地支配や侵略行為がアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、反省の念を表明する」としたことに対し、危機感を抱いた「日本を守る会」などが「真実の歴史を知れ」「目覚めよ日本」「日本を滅ぼす左翼謀略を葬れ」と金沢でデモを行い、その時発起人となった元軍人2人が「この亡国状態への反撃は百千万の口舌より、先ず大碑建立をもって形象化すべき」と思い立ち「碑建立委員会」なるものを結成、全国へ呼びかけ約1億円の寄付で建立、2000年8月に「目出度く竣工」したものだと云う。
また聞くところによると発起人たちは当初、靖国神社か皇居前広場に建立を企てたが、さすが余りにもの「戦争賛美」、「時代錯誤」ぶりからそれはかなわず、急遽「石川護国神社」横の公園に建てることに落ち着いたと言う。しかしそれにも伏線がある、その公園は護国神社の所有といえ当時、公園の管理権は金沢市にあった、だが発起人たちに押され、金沢市はわざわざ管理権を放棄し、この戦争賛美碑建立を認めたのである。
建設当時、石川・金沢の良心的市民を中心として戦争賛美の大碑建設反対の運動が巻き上がり、またこれを許した金沢市に対し抗議行動も行われ、また勝手に利用された沖縄からも悲痛な反対の叫びが起こった。
しかしご存知の様に、石川・金沢は保守自民党の一大拠点であり、その頂点には「神の国」発言などで首相失脚したと言え、「小泉純一郎の後見人」を自称する森嘉朗がたっている、その後この碑はほんんど意識もされず、兼六園の奥の石川護国神社の飾りとして存在しているのだ。
そう云えば近くの小学校には、あの二宮尊徳象が「勤労報国」と刻印されて今尚、健在であった。
金沢は北陸で群を抜く大都市である、そこにこの様な時代錯誤が大反動が何もない事のように存在し、許されているのだ。
碑の横には沢山の朝鮮人や台湾人(中国)の名前が刻まれている、しかし大半の在日朝鮮・韓国の人々、中国人の人々にこの碑は絶対認められない怒りと悲しみ、二度と目に触れたくない憤怒の碑だろう。
「大東亜聖戦大碑」は何時か必ず、良心的日本人の手によって葬り去られることを期待しているに違いない、私も必ずその闘いに参加したいと思っている。