表題とは関係なく、寄らば大樹の陰さんの文章は、私の言葉尻を とらえてのいいがかりですね。
>ロムさんかな、私達がやり遂げたこともない「共産主義革命」、「共産主義社会の実現」を諦めて、いつの間にか「労働者」が「市民」に変わったなどと呑気なことを仰っている。
労働者が市民にかわったとは、言っていません。昔は、労働者と言っても、多くは奴隷だったでしょう。 戦前でも、小作農は、農奴的存在でした。奴隷的労働者が、資本主義時代になって、市民的労働者にかわったと言っているのです。
そもそも「市民」とは何か、ローマなど古代社会で特権階級として市民とて言う言葉が使われた、「市民」は奴隷をこき使い、その死の格闘を見世物として楽しんだ特権階級であり、金持ち達のことを言い表す言葉である。
19世紀の解釈を21世紀に守る必要はないと思います。要するに一カ所に縛り付けられている人生から自由に動き回れる人生に代わったという意味ですから。
>考えてみたらいい、今若者達と中高年層にかけられている「年収100万円、200万円時代」とか、フリーター、派遣、請負、パートが言葉が労働の主流となるような「非正規雇用・不正規雇用」が大手を振る今の社会に、本当の意味での「豊かな市民」など存在するのか、「労働者」という言葉を無視してもいい様な、みんなが豊かで格差の少ない社会に、私達は存在しているのか、そんなことウソだ、トンでもない思い違いだと思う。
市民が豊かさを象徴するという発想は、19世紀の考えでしょう。私のいう市民は、奴隷ではないという意味ですから。労働者には変わりありません。
>「郵政民営化」が進む中で、小包配達1件105円の条件で働かされる請負の労働者がおり、先端企業工場では労働者の9割以上か「非正規雇用労働者」で占められている現実を見れば、「市民」などと言う言葉の欺瞞性が分かるというものだ。
奴隷に対して、市民という言葉をつかったのに、何でもかんでも19世紀と結びつけて非難するのはおかしいと思います。19世紀には、まだ充分資本主義が定着していなかった。だから、市民は上流階級を表す言葉だったかも知れないけれど、21世紀においては、市民は一般をさす言葉としてつかってもいいと思う。
もっとも、このサイトは、19世紀の亡霊の多いところではありますが、寄らば大樹の陰さままでが、その亡霊とは思ってはいませんでした。
>アメリカが破産的経済状況の中でも、飛び抜けた軍事力を持って全世界を実質上支配している、文字通りの「資本主義の最高形態としての帝国主義」として君臨している今こそ、マルクスやエンゲルス、そしてレーニンが描き挑戦した「共産主義革命」、「高度に発達した共産主義社会の実現」るので葉が求められているのだ。
ここは、このサイトの中でも、意見の分かれるところです。アメリカに対する評価は、私もあなたと同じですが、後段の対策の方は、違っています。そこが、左派と、右派との分かれ目でしょうね。
レーニンを肯定するか、否定するかが、分かれ目です。私は、はっきり否定派です。現状の日本共産党も多分否定派だと思います。
>腐朽した社会の転覆の出発点として、労働者の創造力と団結が、今こそ求められていると思う。
どう転覆するかが問題です。転覆して北朝鮮のような国になるのはまっぴらです。
>この間、若者達と一緒に様々の闘いの現場に身を置いて感じる事は、労働者が己と未来に確信を持ち、闘いを開始した時、闘いは圧倒的に楽しく、面白く充実しているという事だ、闘う事によって隠されていた真実も明らかにされる、一方闘いを阻止する側のぶざまで惨めな本質もより露わになってくる、「闘うこと」そのものが面白くて楽しいものなのだ。
闘いが面白いのは、結構なことだと思います。人生そのものがさまざまな闘いの連続です。闘いが苦しいと考えた人が自殺するのでしょう。
>だが今政党、労働組合の大半は最初から闘うことを止め、逃げ、それを弁解し理由付けだけに汲々している、だから組合運動も、様々な運動も面白くなく楽しくもないのだ、JR西日本の大惨事に対し、傘下労働組合が資本以上に慌てふためいた事にもそれは象徴される。
今の世の中は変革期です。どう闘っていいのか解らない人が組合幹部になっているという実態があるのではと思います。政党も同様のことが言えると思います。どう闘っていいのか解らない幹部の後ろについて行く人は悲惨な目にあうと思います。
だから、自分の頭で考えろと私は主張しています。
>何もしなければ、客観的与件の幅は、ますます狭くなり不利になって行く。
何事でも闘いの渦中に身を置き、主体となって始めた闘いは、たとえ一時的に厳しく辛かったとしても、結局は楽しく面白く、時には愉快でさえある。
精一杯闘い、運動する中で、笑い悲しみ、悔しがればいいのだ、その経験はみんな楽しみに変わっていく、何もしないで、あれやこれや云っているだけでは闘いの喜び楽しさなど味わえない。
楽しい闘いをされていてお幸せですね。どういうふううに闘っていられるかは、片鱗しか伺いしることはできませんが。
>革命も社会変革も闘う事によって遂行される、何もしないでただ熟柿が落ちるのを待つだけでは、何も前進しないし、楽しみもなく未来も開けない。
何もしなくてよい。と、私は主張したことはありませんけれど。
川の流れに逆らうような闘いより、川の流れに沿った闘いの方が効果的だと主張しているのです。