さざ波サイトは、いわゆる掲示板とは異なり、投稿形式がとられている。掲載するかしないかは、編集部が判断するということで、これは、一般の雑誌がどこでもとっているやり方だ。ただ、さざ波編集部は掲載の基準を公開しており、それにあっていれば、形式的にのせるというやり方をとっているようである。
これは、一般投稿欄には大変よいと思うし、討論欄とされていても、実質的に投稿欄となっている主題別討論欄でもそれでよいかもしれない。だが、それにとどまらず、編集部がイニシアチブをとって、実質的な討論欄として運営していただくことはできないものだろうか。
というのは、民主主義にとって一番大切なことは、すき勝手な発言が自由にできることではなく、運動の中から必然的に生じてくる対立点を明確に公開して、参加者全員に提示し、公開の討論自体を組織することだと考えるからである。
私自身まだ党員だった頃の想い出を一つ書かせていただく。
民主集中制の機能不全に対応して、大会決議案についての討論のため、党員の意見が募集され、赤旗評論版の増刊というかたちで発行されることになったとき、私はそれを画期的なこととうけとめた。新参者の党員としては、班会議を越えて他の党員の考えを知ったり、自分の意見を伝えることができるというのは初めての体験だったからである。自分でも決議案を繰返して読み、一生懸命に書いたし、一集、二集・・・とつぎつぎと届く意見を読みながら、自分と同様な見解を持つ人が他にもいることを知り、また、自分よりはるかに詳しく分析している人の存在に励まされたりした。
だが、まもなく、それは一種のガス抜きでしかなく、党内の民主的討議の実質的な端緒ではなかったことが明らかとなる。執行部は、執行部支持の意見を水増し投稿させておいて、一応、聞き置くというだけの場にしてしまった。回を重ねるにつれて、意見集の内部で、自然に発生していた討論に対しても、発言回数の制限などで止めてしまった。赤旗本紙に、大会決議案についての説明、宣伝はあっても、意見集における論点の対立は反映されず、何が根本的な対立点であるか、何が論点になっているかについては党員は知らされなかった。意見集自体の普及も特にすすめられなかった。実際の大会決定は、各級会議での代議員の選出を通じて、それとは無関係に粛々として決められてしまったのだ。そして、会議では、「むずかしい」大会決議案をとにかく読了せよ、と。
その後も、党大会前に、この意見集は出され続けてはいる。だが、始めのような活気はない。本当に残念だったなあと今でも思う。
民主集中制にかぎらず、一般に、民主主義的組織においては、目的に賛同、自発的に参加している平等な成員による、徹底的で科学的な討論を通じて、基本方針についての一致した結論をめざすことは不可欠である。各人は、実践を通じてばかりでなく、そうした討論を通じても成長し、組織も結束を深める。双方の対立が解消しない場合でも、相互の討論を通じて、それぞれが深まり、変化するものである。
その上で、実践の必要上、期限のある問題については、やむをえず多数決を行い、それに従い組織として実践をする。とはいえ、多数決によって決まったことは、それが正しいとは限らない。その時点での認識の制限もあり、実践の結果をまって検証しなければならないものだ。過去の決定や実践の誤りはこうした観点に立って率直に訂正すべきものだ。
また、実践組織でない場合は、結論をいそがず、論点が出尽くし、対立点が双方に明確になった時点で討論を中断する。新たな実践が生じ、議論が先にすすめるようになった時点で再開すればいい。
さざ波サイトはこうしたものではない。今のところ、形式が、民主主義でもなければ、組織でもないからである。だが、サイト内に特定の問題についてはっきりとした意見の対立が生じたならば、まずその問題についての意見をつのり、ついで論点を明確にした議論を組織することはやってもいいのではあるまいか。
参加する人が萎縮して書き込みができなくならないように、編集部は討論に介入しないことを原則としていて、必要な場合は一投稿として書き込むことにしているという、編集部の姿勢は承知している。
だが、もったいないな、とも思うのである。