菅井良様
お返事ご苦労様です。3月16日の僕の「奥田氏エッセー」以来3度目の往復やりとりが終わり、これが、4度目前半の投稿ということになりますね。お互い「読んで、書く」という自己規制をしつつ、熱心なモノです。言いっぱなしの気勢上げのようなものとも違うわけですし、こういう態度だけでも愛するこの投稿欄に相応しいモノと言い聞かせてはいます。
さて、最初の僕の投稿動機は以下のものでした。確認しておきます。
「資本家は資本家(僕のこれの定義は僕の論理からしても、皆さんからは少々『好意的』に過ぎるように見えるはずですが)なんだけれど、一種彼ら個人を鬼畜扱いするに等しくて説得力のない『左の左的言動』は少々控え、マルクスが言うように彼らを巡る仕組み、立場を中心に語ろう。この方が、宗教者はもちろん、現代日本の多くの方々の気分にも合うはずで、『マルクス主義は憎悪の哲学である』というある先哲の言葉が説得力を持ってきてしまうような事態もまねかなくてもすむ」と。
これに対する菅井さんとの投稿は当然一つの必然的流れというもので、必要な討論になっていると思います。
ところでさて、7月7日の2回目のお返事投稿にも実はお答えに困ったのですが、今度のご投稿にはもっと困ってしまいました。僕の投稿がどうして以下のことを書いてあるということになるのでしょうか。僕は2回のお返事を貴方のコピーまでとって全文を何度も読み、文章に書かれた限りのことから推察して(推察せざるを得ないような論理の文章でした。後の、より丁寧なご回答はご苦労様でした)、誠実に回答させていただいたつもりですが、今は困惑しています。以下の貴方の読み込みが僕の投稿のどこに書いてあるのかを、示していただけると幸いです。
まず、「年収1500万円の例はやはり、資本家のことを言っていたのですか。ちょっとショックだな(笑)。」
これは全くちがいます。僕がこう書いているとおっしゃるならそれをお示し下さい。「資本論でマルクスが述べたとおりのことが理論骨子としてある問題意識」とは、僕の奥田氏投稿から引き続き、以下にも改めて翻訳を掲載する「資本論」序文の一つの命題、資本家個人とその社会的立場との区別という命題、以外ではあり得ません。また僕は、この二つは二者択一すべきものだなどと、言った覚えもありません。それとも菅井さんが僕にそういう論争を提起されているのですか? なら改めてそういう書き方にしてください。
次は、「賃労働者階級と資本家階級が利害を異にしているということを根底に置くことを反対なさって」です。僕は、これに反対などしていません。少なくとも「利害を異にしている」ということについては。ただ、それを「根底に置く」とは、何の根底に、どう置くということなのですか。3月の初めの文章に僕は既に奥田氏について「無数の人々を世界でも有数の日本の自殺増加率へと招来した元凶の『日本の第1人者』ということもできよう」と書いています。ただし「これは、彼がいなくても代わりが出てきたという『役割』、『立場』というものではないか」とも書きました。その上で、人間同士にはそれとは違ったもう一つの面も存在し、その面がマルクスの時代よりも社会的役割を高めていて、社会変革の側がそれをも踏まえなければ変革がおぼつかないのではないかということで、マルクスも資本論序文で書いた一つの事項(『資本論』第1版序文、大月文庫62年版20ページ真ん中の段)を現代に拡大して、展開したという投稿だったのです。この資本家についての二つの側面のことを僕が述べていることを抑えた上でないと、わざわざ長い文を僕が書いた意味も全くなくなってしまいますので、そこのところをどうかよろしくお願いいたします。ちょっと長いですが訳をそのまま書いてみます。
「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてバラ色の光のなかに描いてはいない。しかし、ここでは、人が問題にされるのは、それが経済的諸カテゴリーの人格化であり、特定の階級関係と利害関係とを担うものである限りでのことにすぎない。(中略) というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産であるにすぎないからである。」
以上がマルクスの自身の文章(の一つの翻訳)ですが、ここでマルクスが述べている類の「誤解」は時代とともに増え、現在ではますます多くなっているのではないかと、僕は考えています。だからそれを踏まえて、大資本家は大資本家であらざるをえないのであるが、それは個人が問題なのではなく、彼を生み出した社会的諸関係の問題なのだよと、そういうように二つを区別して言動しましょうよと、一部の左の左の方々にそう僕は呼びかけたかったんです。
またなお、最初の文章のなかでこの資本家「個人」なるものについて僕が一つの注意を書いていることもご留意下さい。「何か抽象的な人間性のようなものを見よと言いたいわけではない」と言い、その後に書いた下りもよく読んでくださることを願います。
なおこれらに関連する最後の問題ですが、社会変革の主体については、「労働者こそそうだ」という説得力を今日の世界的、社会的情勢を踏まえた上で展開してみてくださいませんか。マルクス主義の公式なら一応知っているつもりですから。「おまえはこんなふうに無知だ」といわれるならば、それは指摘してくださってかまいません。またなお僕は、窮乏革命論には組みさないといつも述べてきました。
ロム3様
郵政投票の自民党がもし共産党ならば、反対投票者は即除名でしょうし、それ以前の反対意見外部表明の段階でもういつでも除名できるはず。亀井とか綿貫とかは共産党なら「分派工作者」で、とっくに「公私ともに村八分」です。この違いだけでも両者の組織規則は全く違うはず。さらに、共産党を村八分された議員など誰が職の世話をしてくれるでしょうかという生活不安や、思想政党からの除名だということが対象者に与える重さを考えれば、この違いは深刻で、絶大なものです。
何度も言いますように、まだ除名騒動になっていない自民党を、貴方がこういう絶大な違いを無視して民主集中制と呼ぶならば、その定義は多数決と「一応それに従え」というものだけになります。さつきさんも僕もそんな単純なものを共産党の「民主集中制」と呼んでいるわけではありませんし、事実共産党の組織規則はそんな単純なものではありません。そんな単純なものであるならば、なにもさつきさんがあんなに長い論文を書く必要もないことです。民主集中制について賛否を討論しようというのであれば、ささつきさんの労作を読むというくらいは当然払うべき敬意ではないでしょうか。(僕は通しで4度は読みましたね。もちろんプリントして) また、そうでないとここでの貴方の討論が軽くなってしまいませんか。長いの読むのはねー?というのでは、少なくともその相手と討論する資格はないと思います。無視するのは自由ですが、少なくとも討論はね。
あなたがああした文章を何回か書けば、余り読む努力を払わずに他人に意見する人ということになりますよ。こういうサイトは気楽に書くのも良いのですが、そういうのばかりじゃいけないと僕は思っています。僕はここに1文書くのに、何日もかけて20時間使ったことなんかはざらです。そういう複雑な対象を、なんとかに表現しようとするからであって、また哲学のことなどの場合それをそんなに易しく書く能力がないのかもしれませんが、同じことにまた20時間使うことが「横着」ではないということなのだなどとは軽々しく言わないでください。討論に際して「横着」でないとは、まず最低のこととして相手をそれが長文でもちゃんと読むということではないでしょうか。相手を十分に読まないその人が、君はもう一度20時間使うべきだとは、はてはてまたなんと横着な!!