新聞の見出しを観ていると、日本が今、重要な岐路にさしかかっていると
いうことが嘘のようである。小泉内閣の惨状、イラク戦争、そして、戦争のでき
る(はずの)国家の総仕上げである、〈憲法の(本質的には)廃棄〉と〈教育基
本法の(本質的には)廃棄〉。これらのことは今では、何もないようである。イ
ラク戦争開戦の時にはあれほど勇ましかったメディアも、アメリカが逃げ腰に
なっているのが察しられたからか、できるだけ触れないようにしている。それで
いて自衛隊はイラクへ次々と粛々とでていくのである。「平和な」日本というド
ラマをメディアは挙げて上演しているようだ。読売新聞の最近の紙面をみている
と実に文化的である、一時期は反テロ、反国連でいさましかったのに。編集手帳
は、文学作品やテレビ番組のネタをとりあげながら、道徳的なお説教に終始して
いる。山崎正和氏の、日本の市民宗教、常識教のすばらしさの解説が一面をか
ざっている。あれ、バブルの時代、司馬遼太郎がもてはやされて、日本はアメリ
カを追い越して世界一っていっていた時代の話じゃないの?10年も続いている不
況はいったいどこの国の話なのだろう。出口のない危機・・・(文字化
け)・・・。
革新的な、と思われている人物が毎日お茶の間に登場し、いろいろなことにコ
メントしながら今日もこれといった事はなし、という穏やかな空気を発散してい
ると、いろいろなニュースも、交代で上演されるドラマのようになってくる。
唯物論的にみれば、人は、自らの環境に向う実践を内化反映して意識をつく
る。つながっている情報装置が、世界のリアルな情況と切れており、国内の深刻
な事態を覆い隠すようなものであれば、そして、自らの行っている実践が、身の
回り規模のことであれば、そのようなせまい現実に生きる以外にはない。せまい
範囲のことしか考えない意識は、国家が提供する、「広い」問題についての一方
向的な実践に無抵抗となる。
今、メディアが流している一番本質的な情報は、事もなし、癒しということに
なる。たまに、それをかき乱すモノがはいってくると、排除しようとする。とい
うか、されている。確かに、楽しいドラマにひたっている人々には愉快ではない
だろう。だが、実はその異物は共に生きようという、諸民には勇気を与えるメッ
セージであるのだが。
主要メディアを観ていると、実に平和である。嵐の前の静けさのように。