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一般投稿欄

メディアのシステム、そして、個人は各人なりのメディア利用をする

2005/08/02 菅井 良

 新聞の見出しを観ていると、日本が今、重要な岐路にさしかかっていると いうことが嘘のようである。小泉内閣の惨状、イラク戦争、そして、戦争のでき る(はずの)国家の総仕上げである、〈憲法の(本質的には)廃棄〉と〈教育基 本法の(本質的には)廃棄〉。これらのことは今では、何もないようである。イ ラク戦争開戦の時にはあれほど勇ましかったメディアも、アメリカが逃げ腰に なっているのが察しられたからか、できるだけ触れないようにしている。それで いて自衛隊はイラクへ次々と粛々とでていくのである。「平和な」日本というド ラマをメディアは挙げて上演しているようだ。読売新聞の最近の紙面をみている と実に文化的である、一時期は反テロ、反国連でいさましかったのに。編集手帳 は、文学作品やテレビ番組のネタをとりあげながら、道徳的なお説教に終始して いる。山崎正和氏の、日本の市民宗教、常識教のすばらしさの解説が一面をか ざっている。あれ、バブルの時代、司馬遼太郎がもてはやされて、日本はアメリ カを追い越して世界一っていっていた時代の話じゃないの?10年も続いている不 況はいったいどこの国の話なのだろう。出口のない危機・・・(文字化 け)・・・
 革新的な、と思われている人物が毎日お茶の間に登場し、いろいろなことにコ メントしながら今日もこれといった事はなし、という穏やかな空気を発散してい ると、いろいろなニュースも、交代で上演されるドラマのようになってくる。
 唯物論的にみれば、人は、自らの環境に向う実践を内化反映して意識をつく る。つながっている情報装置が、世界のリアルな情況と切れており、国内の深刻 な事態を覆い隠すようなものであれば、そして、自らの行っている実践が、身の 回り規模のことであれば、そのようなせまい現実に生きる以外にはない。せまい 範囲のことしか考えない意識は、国家が提供する、「広い」問題についての一方 向的な実践に無抵抗となる。
 今、メディアが流している一番本質的な情報は、事もなし、癒しということに なる。たまに、それをかき乱すモノがはいってくると、排除しようとする。とい うか、されている。確かに、楽しいドラマにひたっている人々には愉快ではない だろう。だが、実はその異物は共に生きようという、諸民には勇気を与えるメッ セージであるのだが。
 主要メディアを観ていると、実に平和である。嵐の前の静けさのように。