私は政治に関しては全くの素人です。
勿論、一つの特定の政治団体に見を置き、支持している訳でもありません。
とは言っても選挙には行きますし、各政党の政策などに耳を傾けたいという気持ちが全くないわけでもない、いわば一国民といった立場であると認識しています。
私が今回投稿させて頂きたいと思ったのは、このような場所に自信を持って意見を書かれるような皆さんの言われる民主主義というものに対しての認識です。
素人だと笑われるでしょうが、私の頭で解釈している民主主義とは、全ての国民(有権者)一人一人に投票権が与えられ、その意見を元に代表者が選出され、政治が行われるシステムだと思っています。
それと、これも浅知恵と笑われるかと思いますが、昔の専制主義、すなわち政治を司る人間(体制)に対してノーと言うと下手をすれば合法的に殺されてしまうような制度から、時の政府に対してでも、批判も含めた自由な意見が許される制度だとも思っています。
と、これは私の不勉強からくる疑問なのかもしれませんが、私はそんな民主主義国家に生きていて、少し疑問に思うことがあります。
それは、後に書いた「体制批判が許される」といことがどういう意味を持つか?、ということです。
もちろんですが、十人十色で人の考えは様々ですし、仮に二つの異なった意見があった場合、それぞれの意見に良い部分と悪い部分が同時に存在すると思います。
これは人の成長の仕方や、はじめに感銘を受けた考え方との出会いなどによって感じ方の部分の差もあるとは思いますが、たとえ少数意見や奇抜な意見でも、その人の考えとして尊重されなければいけないと思うのです(議論における批判とか反論は別として、意見の存在そのものという意味で)。
わたしは、数日前、ふとこのようなことを思いつきました。
普通の人から見れば、可笑しい事と一生にふされると思いますが、書かせて頂きます。
もしも仮に、人々の暮らしをより良くしてくれる、平和で明るい政権が誕生したとします。
戦争もなく、人々が笑って暮らせる世の中。
しかし、そんな政治にノーという人も必ず存在すると思います。
それは前に書いた、人それぞれの中の一意見としてです。
こんな事をいうと、また可笑しいと思われると思いますが、事細かに悲惨な実情を知っている人間にしても、(いわゆる)平和ボケの人でも、そういった人から見たときに、「私は、平和には反対である」だとか「戦争ありき」などといった人の意見というものは、どう思われるのでしょうか?
例えば、昔は戦争反対の立場を取った人間が牢屋に入れられました。
これは、時の政府のやり方など、様々な問題があったとは思いますが、体制が反対意見を差別し、無理に押し込めた、酷いものであると思います。
こんな事をいってしまうと頭がどうかしていると言われるかもしれませんが、平和が当たり前といった価値観は少しおかしいと思います。
この中で、私が言いたいのは「当たり前である」といった、その部分にあります。
一応断っておきますが、これは決して戦争肯定だとか、人の尊い命が失われても良いといった考え方ではありません。
もしもですが、平和と言われる価値観(私は平和という言葉は、とても抽象的なものだと思っています)が絶対という風潮があって、それに対して自由な意見が言えない(言いにくい)という状況があったとします。
それは、民主主義に沿うのでしょうか?
たとえば定義の一つとして、戦争の無い世界を「平和」とするとしましょう。
これは決して、戦争肯定論の人の支援をする目的がある訳ではないですが、どんな意見も一人の人間に平等に与えられ、認められた意見であるならば、戦争肯定論も場に出る事は許されるのだと思います。
議論の中で、それに対して戦争はいけないという反論や批判がされるというのであれば、それは差別だとか、暴力的に押し込めたという事もない正しい反対の仕方だと思います。
しかし、その逆の立場の人の言う平和という概念に対しての反論(または批判)も、また正しいという事になると思います。
この場合、仮に戦争が無い方が良い、あったほうが良いという2つの意見は、全くの平等的な立場にある意見となると思います。
(ただし、その意見に対して、人がどちらをを支持するかというのは全く別の話になりますが)
ですから、要約しますと、私の言いたい事とは、「暴力でも、平和的な価値観にしても(それによって生まれる結果は、また別の議論として)当たり前の価値観として一つの意見が定着してしまい、それのみを『正義』だとかいう事に対して、疑問に感じる」ということです。
もしも平和にたてつくものは、それこそ非国民的だなどという風潮がある平和な世の中が来たとき、また、平和主義以外の価値観は悪である(前にも書きましたが議論の中の反論とは別)という考えが当たり前になったとき、これは民主主義という考え方そのものの概念から外れてしまうのではないかと思います。
極端な例えで悪かったとは思いますが、この場合、『平和』の反対が『悪いもの』という価値観を持つ事は、ある意味においては差別であり、自分たち以外の考え方が正しく、それ以外は正しくないといことになるのではないでしょうか?
もちろん平和に反対側などというものは無く、たとえ言葉では反対の戦争賛成論にいたっても、ただ単に『その他の意見』となると思います。
哀しいかな、私はそれを認識できていない民主主義賛同者の方が多々いらっしゃると思います。
私の知り合いに主義者的な人間がいて、それもその人の考えだとは思うのですが、どう聞いていると、民主的な価値観を尊重している団体に賛同し支持し、活動しているにも関わらず、悪く言ってしまうと、その団体で学んだ価値観こそが、この世の唯一無二の正義だなとどいったように聞こえてしまうことがあります。
もしも民主的なものを謳う団体に所属しているのであれば、組織の団結はあれども、その組織の中にも民主的な流れというか、組織の打ち出す方針や主張に自信や信念は持てども、その一つの考え方を絶対のものとするように崇め、極端にいうと、それ以外の価値観は邪道であるといったものの考え方は、戦争中の「これは悪いことだ」と決めつけ、牢にいれるようなやり方の考えと、根幹的には同質のものであると私は思います。
一応断っておきますが、私は信念やものの考え方などは、動いてもというか、変わるのが当然だと思います。
コロコロと損得勘定などで常にあっちこっちに行くというのであれば少し閉口もするとは思いますが、なにか大きな感銘を受けたりして、別の価値観を見出すことは、悪いことではないと思います。
主義者の方は意思の強い人が多いでしょうから、常に自信と誇りを持って行動しておられるのでしょうが、私たち一般庶民の場合、そこまで信奉者的には考えません。
ですから、日和見などと言われるのでしょう。
今度も選挙がありますが、私のような一般国民が政治から離れる理由としては、なんというか、真面目に国の事を考え行動していられる方にとっては大変失礼だとは思いますが、各組織が自分のことだけを考えているようなやり方に、いわゆる「そっぽを向く」のだと思います。
仮に、こんなことは組織から見ればタブーかと思いますが、少しでも相手の意見の良いところなどを直接口に出してでもあげてくれれば、議論も泥仕合と感じなくなると思います。
それと、各団体の末端の方も、「あそこは自分たちと考え方は違うが、この意見に関しては賛成だ」とか、「ここの部分は正しい」などと言ってもらえれば、少しは政治というものが明るく見えてくると思います。
そうして、1つ1つの意見が差別的な影響を受けることなく平等に認識され、その中から「では私はこの意見を選ぶ」という選択が出来れば良いと思います。
と、これも私の単なる一意見なのですが、不勉強の身で理論的には正しくはないかと思いますが、ただ単に平和な世の中、国民のための世の中を、ではなく、仮にそうした世の中を作るにしても、他の意見(の存在)も認めた上での正しい議論の中で結論付けて欲しいと願います。
以上、大変長くなりましたが、これにて筆を置かせていただこうかと思います。
最後まで目を通してくださった方には、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。