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一般投稿欄

作る会教科書、八尾と宝塚の戦い

2005/08/11 銀河 60代以上 画家

 「作る会教科書」の採択、不採択を決める教育委員会が各地で進められています。
 私は大阪八尾市教委が「作る会教科書」を密室で採択しようとしていたことをインタネットで知り8月8日駆けつけました。すでに関西百万人署名や関西合同労組、部落解放同盟全国錬の人たちも駆けつけ市役所周辺でこのどろぼうねこのような八尾教育委員会の策動を暴露しました。そのビラは市民の中に吸い込まれるように入ってゆきました。それにおびえてし教育委員会は採用を断念しました。このペテンに対する怒りと子供たちを兵隊に育てるための扶桑社の「新しい歴史教科書」の内容に対する怒りがす末広がりに市民の中に広がってゆくのはもう確実です。教育委員会はその同じ時間やはり秘密の会合を持っていたのですがこの様子の報告をうけて採択を諦めたのでした。
 「私はどうしたらいいのですか」
 ビラを持ったお母さんが私に聞きにくるほどだったのです。。

 翌日、9日宝塚市では学校区自由選択制の会議が教育委員会であり傍聴に 行きました。それは貧しい地域の学校や被差別部落の子供たちの学校に行かなくてもよいように学区制をなくする事をテーマにした教育委員会の会合でした。たくさんの40人ほどの傍聴人がきていたので教育委員たちはその議題を避けて終了しました。
 翌10日いよいよ教科書採択の教育委員会です。これだけは這ってでも行くつもりでした。以下はそのときの記録です。

 傍聴席には入れるのは80人。会場にきた人は258人。私もくじがはずれ会場に入れませんでした。
 モニター室で会場に入れない人たちはぎっしりはいり教育委員会の議事を固唾を飲んで見守っていました。一言半句も聞き漏らすまいと真剣な表情でみんなモニターを見ています。
 話せば長くなります。作る会教科書の歴史、公民が不採択になった、勝利の瞬間、それが信じられないようなまばらな拍手が沸きました。なぜならどこに落とし穴があるか分らないからです。その後も多くの人は用心しながら耳を傾け目を凝らしてモニターを見つめていました。
 教育長の悔しそうな発言は
 「静謐な環境でこの教科書問題を討議できなかった」
 「4年後の教科書見直しの時には傍聴者を入れないで教育委員会を開かねばばならないと思います」
 ブッ。笑いと嘲笑がさざ波のようにみんなの中に流れました。そしてやっと勝利を確認した安堵のため息と、勝利の悦びこらえきれずにモニター室から多くの人が溢れ出ました。
「よかったね、よかったね」
 と握手しあう人々の姿が市役所のロビーのあちこちで見られました。2時間前には不安と心配の面持ちだった人たちが今は明るい笑顔に満ち溢れていました。
 宝塚の有志達は全力で戦いました。
 そして勝利した喜びはみんなの心にじわじわと広がっていくかのようでした。
 近畿は全て平和を守り、戦争に反対する市民が勝利しました。だが部分的勝利です。しかし八尾も、宝塚も私はは幸いにして参加できましたが苦しい戦いでした。市民の戦いがあと一歩遅れたら敗北でした。このようなぎりぎりの線で平和のために戦う人たち、特にお母さん達が立ち上がったことが素晴らしかったと思います。
「婦人が参加しなければパリコンミューンはなかったであろう。」
 婦人が戦いに立ち上がるときそれは本物です。女は妥協しない動物なのです。
 「されど母は強し」
 宝塚の母親達が戦争への道をさえぎったのです。

 「戦えば勝てるのだ]ということをみんな実感として噛みしめました。
 作る会教科書のささやかな話は私の掲示板の中の「レモネード」でしています。
 http://nozigiku78.hp.infoseek.co.jp/