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記憶

2005/08/15 凡人Y 50代 自営業

 生まれて数年間、1957年迄を沖縄で過ごしました。戦後、捕虜収容所とされ、全島民が集められ、その後も帰る当ての無い人々が寄留民として、あての無い生活を送り、田舎町は一時の賑わいをかもし出していました。家の近くには軍道があり、道路の向こうには白浜が、光る波が見え隠れしていました。波の音で寝つき朝は演習に向かう米軍の戦車の響きで起き、寝巻きのまま海兵隊の通りすぎるのを見ていたものです。浜と道路の境には丸太に連なった有刺鉄線が。当時は米軍人の保養所となっていました。わずかに焼け残った生家はうるま新報の本社になっていたとのことです。戦後、瀬長亀次郎さんが所有者不明の建物を利用していた模様です。事情を話してすぐに本社は移動され、その後そこで生まれました。まだ相当貧しく、祖母が炊いた芋に裸足の子供たちが、我先に群がっていたのを覚えています。
 戦後、沖縄には、「切り込み」なる言葉がありました。米軍の配給物資で足りない分を基地に忍び込み」略奪するのです。少年がそうしたグループを作り、戦果は家族や親戚に分配し生き延びて行ったということです。捕まったら営巣に送られ、出てきたらまたやる。見つかっても撃たれにくい子供達の仕事でした。
 ところがある日事件が起きました。
 その日、グループ内で年長の彼は銃を構えた警告に、手を上げずにその場で射殺されました。軍事教育を施されていた為に、中学生は二度と帰らなかったのです。母親は気丈にも、屍を担いで基地に行き「息子を返せ」と抗議したのですが、追い払われてしまったのです。親戚に起きた出来事です。