たしか、2~3年前だったと記憶するが、志位氏が某所にて語ったことの中に 「市民道徳」と「欲望の解決」なるキーワードがあった。コチコチの党中央常任幹部 が言うところの市民道徳や欲望の解決なるものが、どのようなものを前提に出されて いたのか、不勉強にして知ることも推測することもできないままでいる。
そもそも、志位氏は「市民道徳」を、成熟(?)した資本主義国のコンテクストの 中でようやくとらえてみようという気になったのだろうか? または、ボーダーレス 化した世界大競争時代・混沌とした不確実性社会のそれの中で分析追究する気になっ たのだろうか? いや、そうは思えない。だいいち、「市民」という言葉自体が共産 党らしくない(笑)。ぼくはその意味ではむしろ嬉しいのだが、では、いままで「資 本家VS労働者」の二元論でしか考えず、その延長線上でしか教育を施さなかった党中 央・教育文化局としては今後困るような展開にはならないのだろうか? 従来の教育 路線との整合性をどうファイン・チューニングするのだろうか?(旧共産党的なイン テリなら、「市民」なるタームに、ひょっとして「ブルジョアのニオイ」を嗅ぎ取っ て嫌悪するかもしれない)。
マル経に流れるのはあまり趣味ではないので、題材を民主集中制にとってみるとい
いかもしれない。
たとえば、石堂清倫さん(故人)や有田芳生さん、伊里一智さん、中野徹三さんな
どなど、理不尽な形で党を追われた累々たる被害者。石堂さんは人間性あふれ、弟子
たちに愛された、世界的にも貴重なマルクス哲学者(万一、誤解があればご指摘くだ
さい。)。有田さんは元・新日本出版社員で現在は日テレ・コメンテーター。伊里一
智さんは大学院生(東大院生支部)で元・民青東京代議員。中野徹三さんは社会主義
分析の権威で政治学者。
さまざまな情報を総合してみて、党外の末席から客観視する限りでは、党を追われ
た彼らにどうも非があるとは思えない。党中央は、生前復権に道を開くこともなく、
石堂さんの葬儀・告別式に現役党員が参列することにまで除名をちらつかせ、禁令を
敷いたらしい。(除籍・除名の不当処分による)多数の被害者に対し、再びの真相究
明に着手するなり、ゆくゆくは名誉回復に乗り出す「勇気」を持ってもらいたい。市
民良識として考えれば当然ではないのか。
なにより、「市民道徳」を標榜・公言したからには、責任ある立場の一員として、
率先して被害者の名誉回復に乗り出すべきだろう。
まっ、そうは言うものの、中には本当に不祥事を起こしたために除名を喰らった者 もゼロではないと思う。某県での事件なんかはその一例だと聞いたことがある。ただ、 今後も格別の事情ある場合以外は、実名はあげるべきではないと思う。
党中央には気の毒(?)かもしれないが、9月下旬に『週刊新潮』誌上で発表され
た筆坂秀世氏の「手記」は、ご本人の「市民道徳」を正直に吐露しているのだろうか?
ふとそう思って、原文を実際に読んだ周囲の人たちに聞いたところ、肝心の焦点は
きれいにぼかしてあったとのことだから、筆坂氏はご自分の「市民道徳」を語る気は
ないのかもしれない。
好奇の目ではなく、セクハラ問題は「市民道徳」を考えるにあたり、恰好の教材に
なるはずなのだが・・・・・。
「欲望の解決」はどうなのだろう? 「欲望」と一言で聞けば「そんなもの人間な ら誰にだってあるじゃないか」と大多数の人ならフフンと一笑に付すのがオチだろう。 それはそれで精神的に健全なリアクションであろう。どのような側面でもおよそ人間 として生きる以上は、「欲望」無しに生活することは不可能だろう。「研究欲」「読 書欲」「スポーツ欲」「食欲」「飲酒欲」、音楽を聴きたい「欲望」、愛車でドライ ブしたい「欲望」もあるだろう。「明日はきょうよりも暮らし向きがよくなるかもし れない」と考えるのもささやかな欲望(というよりは希望的観測。)といえるだろう し、「腐った社会を変えてほしい」と願うのもまっとうな「欲望」といえなくもない。 なつかしい思い出としてなら「あの第一志望校に絶対入学したい」とか、「あのカノ ジョとステディーな仲になりたいなー」もれっきとした「欲望」なのである(女性で あれば「ステキなカレシと出逢えますように」)。
差別用語にあたるかもしれないが、いわゆる非行少年の場合はどうだろうか。たと
えば一頃全国のオジサンたちを恐怖に陥れた帰宅時の「オヤジ狩り」。わかりやすく
言うと強盗傷害にほかならないのだが、彼ら(ヤツら、と言うべきか。)にとっての
「欲望」とは何なのだろうか?
1996年当時の週刊誌から若干引用する。彼らが逮捕された時、「遊興費がほし
かった」「カネの無さそうなオヤジでも、暴力のターゲットにする。日頃のウサ晴ら
しなんだ」「オヤジ狩りそのものへの罪悪感はない。バレたら運が悪いと思うだけ」
などと、理解しがたい!!エートス(行動様式)・思考回路が浮かび上がってくる。
社会病理学や犯罪心理学の領域なのだろうが、もしも志位さんが彼らと面と向き合う
ことにでもなったとき(まっ、あくまで想定にすぎないが。)、そんな彼らにどのよ
うに「市民道徳」や「(健全な)欲望」を講義できるのだろうか? マルキシズムの
文脈では不可能なことはまず間違いなかろう。が、「少年犯罪のアメリカ化」とでも
いうべき新局面を迎えつつあるいま、避けて通れるアポリアとは思えないのだが。
だが、時にもっと切実かつ深刻な「欲望」も充分ありうるだろう。親友の親族に難 病患者がいたとする。正常な感覚の持ち主であれば、「アイツの弟さん、心配だな。 なんとか治る特効薬ないものかなー」「名医っていうのは、どんな情報で探すのが信 頼性高いのかな」「懐具合は貧乏だけど、せめてもの治療費援助の足しにオレの端し た金を受け取ってくれ」などという気持ちも、この場合、広義の意味で「欲望」と言 えなくもない。正確には「私心無き熱望」「崇高な願望」と言うべきかもしれない。 ぼくよりも2~3世代上の方々であれば、あるいは「四国八十八箇所巡礼」お遍路さ んになられて実際に巡られた方もおられるかもしれない。
(※苦しい時の神頼み的な信仰概念は全くないものの、西欧キリスト教圏にも「巡礼」 という形態はあるにはある。スペインには世界的な聖地サンチャゴ・デ・コンポステー ラがあり、カトリック信者なら「一生に一度は訪れてみたい場所」のひとつらしい。 世界文化遺産になってもおかしくない、と聞いたことがある。また、同じく啓典宗教 のイスラーム世界では、日本でもポピュラーになったメッカやメディナなどがある)
これも切実なのだが、こんな思いも「欲望」と言えるのではないか? 「日本は極 度のクルマ万能社会だ、交通戦争だ、大気汚染だ。喘息患者にとっては地獄だ。車椅 子の身障者にとって外出は命がけだ。狭い国土に自家用車保有率が高すぎる。オラン ダやドイツみたいに LRTシステム(注*拙稿末尾参照) を早く法制化しろ」など と・・・・・。
「現代の統制色の異常に強い社会では、精神的にもスポイルされた人間しか育ち得な い。<良い意味での自己責任>や<自己決定権>といったものを、国家が許さないし、教 育すらしないからだというのがひとつの要因である。そういった社会では、自己規制 的なメンタリティーの強い憐れな人間ばかりが量産されがちである。大事な人格形成 期に徹底的に植え付けられた悪しき“教育”はトラウマとなり、その後の人生に決定 的に影響する」
とかつて恩師が語っていたが、おそらく、旧ソ連・旧東欧、北朝鮮、中国辺りがそれ に該当するのかもしれない。現代日本にもある程度当っているかもしれない。健全で 自由闊達な問題意識の醸成を促すような教育は、ぼくらの世代に比しても今の大学生・ 高校生は受ける機会が減っているのではないか、と感じる。
共産党の施してきたイデオロギー教育は、党員によるそれへの批判・異論を許さな いが、表立っての対組織批判がほとんどまったく聞かれなくなってしまってから久し い。党員は精神的にスポイルされ尽くされてしまったといえるのではないだろうか?
政体が資本主義、社会主義、開発独裁の別を問わず、人間の「欲望」自体は生理学
的には変わらないはずだ。多種のメディアから流れる欲望喚起の絶対量・刺激度こそ
かなりの格差はあるにしても・・・・・。
過剰な「欲望」は好ましくないものの、「欲望」のない社会が健全であるとはどう
しても思えない。欲望あるからこそ、(良い意味での)競争心が生まれるし、向上心
だって生まれるのではないか? 人為的に「欲望」を抑制してしまうと、必ず何らか
の形で反動が起こるはずだ。抑制の仕方が過度であればあるほど反動も陰湿な、ある
いは陰惨な形態で立ち顕れるのではないだろうか。百歩譲って仮に「欲望」が抹殺さ
れた社会が実現しえたとしても、それは絶対に桃源郷ではありえないだろう。表面上
見せかけの安定はあるかもしれないが、喜怒哀楽のない、不気味さに満ちた“生きる
屍(しかばね)”でしかないと思う。それはまごうことなき「レイムダック・ソサエ
ティー」ではないだろうか。
これは某教授から聞いた話だが、体制崩壊後の現ロシアでは、危険なカルト集団が 雨後の筍のようにはびこっているといわれる。その中には「汝の欲望は憑きものなり。 ワシの妖術で欲望を落としてあげよう」などと本当に人格改造させられて廃人になっ てしまった若者がいるという。仏独とは違って、まだ「脱カルト教育」は普及も社会 的認知もされていないという。長らく信仰の自由のなかった無神論国家に生きてきた 人民の精神的免疫の無さ、または精神的反動なのかもしれないが、「欲望」のありか た、その健全な希求の仕方すらわからなくなっているのかもしれない。
(注*)【LRTシステム】:オランダ首都圏、ドイツ中西部の約20の地方都市と中 核都市、東南アジアではシンガポール市などで実現された、弱者優先交通システムの ひとつ。当局の許可有る場合以外は、指定区域内へのマイカー乗入れを全面禁止し、 終日、歩行者・自転車・車椅子といった交通弱者優先のエリアを確保した。マイカー 族の不満宥和策として、市内くまなく路面電車を復活させるなどアイディアもこらし ている。主要駅には無料の自転車預かり所も設置されている。当該地域住民の意識も 変わってきたという。