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一般投稿欄

薄気味悪い日本人と人間の感性

2005/09/15 長壁 満子 40代 金融

 5日の朝日オピニオン欄にのった王敏さんの「日本の秘められた文化力」に、 そして、それを賛美する今回の投書主・田中寿一氏に、さらに、こうした投書を取り 上げる朝日編集部に、私は、なにか、非常に不気味なファシズムの根っ子をみた。
 以下、途中まで引用する。

 久しぶりに心にしみ入る文に接することができました。・・・
 料理に出たアヒルの顔にそっとティッシュペーパーをかけた日本人教員。そのしぐ さを不思議がる知人に「日本人の生き物に対する優しさの現われかしら」と言いって くれた王さんは、私たちが失いつつあるものを思い出させてくれました。
 高校の国語教科書に川端康成の作品が載り、中国の高校生が「もののあわれ」「わ び」「さび」といった日本文化の特徴に触れていることを知りました。

 私は、この行為そのものをとやかくいうつもりはない。たたきとして鯵の身をぐちゃ ぐちゃにされ、頭をちょこんと上向けにされた様に、私はこう思うなどとも言わない。 しかし、この教師はたとえば、日本でお刺身などをたべるとき、また、祝いの席で鯛 の尾頭付きをみたとき、やはり、同じように、ふきんかティッシュをかけて、残酷な リアルな様を隠すのだろうか。
 隠すこうした行為は、自らの目に触れるのやめただけである。想像をストップさせ ただけである。意地悪く言えば、隠蔽され、見事に装飾したものであれば、たとえば、 「人肉」であれ、食べられる感性につながるのではないだろうか。
 実際、形を変えて、今、私達は直接手を下さないで、同胞を殺し屋にさせ、イラク 人やアフガン人を殺すことを承認しているのである。
 もちろん、私も肉や魚をたべている。アヒルや牛の頭が見えた料理は、食べられな いだろうが、みえない肉片はカレーやシチューで食べている私である。心中はいろい ろ思いながら。
「隔すことでよしとする」「根源を見ないまま、進行」する今の風潮に、私は通ず るものを感じた次第である。
 ことさら、取り上げるほどのものでないのである。ことさら取り上げることの、賛 美するその姿勢に、底知れぬ気味悪さを感じてしまうのである。なにか、はぐらかさ れているような気がするのである。
 生きものの命を頂いて生を得ているという贖罪を問うことなく、食べる側からの視 点しかないからなのだろう。この投書が載った時点から、喉に小骨が刺さったような 感じが続いていた私である。

 (注) 9月10日、朝日新聞・オピニオン欄の森巣博氏の選挙コラムは、今の日 本人の民度がよくわかるような気がする。