社会主義革命における暴力革命か平和革命かという議論を見受けますが、党の綱領の原点にもどって論じてみたいとおもいます。
暴力革命が人民の武装蜂起による国家権力の奪取という事態のことを意味しているとすれば、それは現代にあっては、無謀な冒険主義であり、現代の日本のブルジョア国家の巨大な暴力装置の前にはあまりに無力であり、逆にむき出しの国家の暴力装置による支配を呼び起こしてしまうことでありましょう。
そして、歴史の歯車は50年~100年も後戻りすることが避けられないでしょう。それに加えて、革命の平和的発展の可能性の芽を根こそぎ摘み取ってしまうのが、この”暴力革命”であることでしょう。あの、かっての光州事件の大きな犠牲と巨大な流血という事態ひとつとってみても、反動国家の暴力装置の巨大さと残虐さがいかなるものかはご理解いただけるものと思います。
かくのごとく、たとえ情勢が不利であっても反動勢力と帝国主義者は、あくまでも権力にしかみつき、無謀な攻撃に出ることは避けられません。それを武装した労働者の”革命的蜂起”によって打ち破ることは物理的に不可能であるのが現代の帝国主義国家の暴力装置であります。
たとえ、反動勢力の暴力装置に対して革命的労働者が物理的な武器により”最後の血の一滴”にいたるまでたたかったとしても不可能であり、そして、それは歴史の歯車の百年の後戻りであり、二度と労働者階級は立ち上げれないような打撃をこうむることでしょう。
それゆえ、われわれに残された道は革命の平和的発展を追及すること以外にありませんが、原点は国民多数の意思にもとずく社会変革の平和的移行の追求であります。
仮に今の小選挙区制度の議会の中で日本共産党と統一戦線の勢力が多数派になったとしましょう。理論的にはこれは可能な事態でありますし、実現が可能なことであると思います。ただし、今の党の大幅な民主的改革が必要であることは言うを待ちませんが。
さて、将来の事態として想定した場合に、リニューアルした日本共産党と統一戦線勢力が国会の中で多数を占めたとしましょう。この場合にもブルジョアジーはあっさりとそれに従うものではないでしょう。いわば議会で多数をとり、政府を組織するということは国家権力の頭部を掌握したにすぎず、軍隊や官僚組織からなる執行権力はそのままの状態に残ったままであります。
この執行権力が暴力装置の本体であり、この執行権力たる彼らに権力を明け渡すように強制するものが、人民の多数者の意志を結集して、執行権力の抵抗とサポタージュを困難にさせる圧倒的な政治的包囲網であります。
すなわち、現代の民主主義革命および社会主義革命は圧倒的多数の人民の側が、政治的少数派の反動勢力の暴力装置による不意打ちを食らわぬように不断の革命的警戒心という”武装”によって革命の政府を守り抜くことを通して(そのことを通してのみ)革命の平和的移行の条件を拡大し、かつ広げていくという道を進むしかありません。
反動勢力の陰謀性、凶暴性に絶えず革命的警戒心を怠らず、敵が非平和的な対応をしてくるであろう、あらゆる”隙”を完全に封殺していく立場に立つことが唯一の現状変革、社会変革の道であると思います。これが労働者階級の最大の”武装”であり、労働者一人一人に物理的な武器を所持させることではありません。
本当にオーソドックスな党の立場である、いわゆる多数者革命の原点と基本に立ち返ることが現代におけるもっとも革命的な立場であるかと考えます。
そのためには、常に広場と街頭に人民が繰り出し、反動勢力の先回りをして常に彼らへの政治的包囲網を張り巡らす必要があります。自覚的で圧倒的な多数派の人民よ!街頭と広場にいでよとの不断の呼びかけが必要でありましょう。
そして、この多数の人民の政治的力による社会変革の現実性と可能性を感じさせる事態が現に存在します。それは地球の裏側のラテンアメリカでおきています。
すなわち、最近のベネズエラにおけるチャべス政権がアメリカ帝国主義者と結んだ軍部や財界などの反動勢力の妨害(クーデター策動や石油サボタージュ)を打ち破り、通算では八回の全国選挙でベネズエラ国民の圧倒的支持を得ながら、ベネズエラにおける米国から自立した政治経済改革を進めている、いわゆる"ベネズエラ革命”の進展を見るにつけその思いを強くします。