マルクス主義者は、レ-ニン主義者だと言っていますが、レ-ニン主義で社会主義革命が行われる限り必ず、ソ連や東欧と同じ様に、失敗すると思います。
レ-ニンが、「彼女はやはり鷲であったし、今でも鷲である。そして、彼女についての記憶が、常に全世界の共産主義者にとって貴重である」と言ったロ-ザ・ルクセンブルグの「ロシア革命論」草稿の次の文書に対する、あなたの見解をお聞きしたい。
「レ-ニンとトロツキ-は、普通選挙によって選出される代議体の代わりにソウ゛ィエトを労働者大衆の唯一の真の代表機関であるとした。しかし、全国の政治生活が抑圧されるに応じて、ソウ゛ィエトの中の生活力も、益々衰えていくに違いない。普通選挙、無制限な出版、集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎えちじみ、偽りの生活となり、そこには官僚制だけが、唯一の活動的な要素として、残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無制限のエネルギ-と限りない理想主義を持った数十人の指導者が指令し、統治し、現実にはその中の十人位の傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリ-トが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために、時折会議に召集される、ということになろう。つまり、要するに同族政治なのだ 独裁には違いないが、しかしプロレタリア-トの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまり、要するに同族政治なのだ――独裁には違いないが、しかしプロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまり全くブルジョア的な意味での、ジャコバン支配のような意味での独裁なのである。そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等々といった公的生活の野蛮化をもたらさずには、おかないであろう。これはいかなる党派も免れることのできない強力な客観的な法則だ。
レ-ニン=トロツキ-の理論の根本的な誤りは、まさに彼らがカウツキ-と全く同様に独裁と民主主義を対立させるところにある。ボリシェビキの場合もカウツキ-の場合も、問題の提起は「独裁かそれとも民主主義か」となっている。カウツキ-はもちろん民主主義に賛成だが、それはブルジョア民主主義のことだ。というのも、彼はブルジョア民主主義をまさに社会主義変革との二者択一の関係に置いているからである。レ-ニン=トロツキ-は逆に、民主主義に対して独裁を支持しているが、このことによって、一握りの人物の独裁を、つまり、ブルジョア的な独裁を支持しているのである。これは二つの対極だが、両者とも真の社会主義の政治からは、離れている(中略)
プロレタリアートはまさに即刻、精力的に、断固として、容赦なく社会主義的な処置に着手すべきだあり、そうしなければならない。つまり独裁を行うのである。しかし、この独裁は階級の独裁であって、一党や一派の独裁ではない。階級の独裁とは、つまり、もっとも広く公開され、人民大衆がこの上なく活発、自由に参加する何の制限もない民主主義の下での独裁である。(ロシア革命論 論創社)
これは、レ-ニンらソウ゛ィエト指導者への警告だったが、この予言は的中することになる。
又、彼女は、「ロシア民主党の組織問題」次のように、警戒をしている。
「レ-ニンが行っているように、もし、党指導部に、否定的な性格の絶対的権限を与えるとすれば、あらゆる党指導の本質から必然的に発生する保守主義をまさに人工的に、もっとも危険な範囲まで強化することになろう・」
「レ-ニンが推奨する超中央集権主義は、その全本質において、積極的・創造的精神によってではなく、硬直した夜警の精神によって支えられているようにみえる。その思考の方向は、党活動の豊潤かにではなく、もっぱらその統制に、その展開にではなく制限に、運動の結果にではなく締め上げに向けられている。」(アポリアとしての民族問題 社会評論社)
この二つの本は、レーニン主義は、マルクス主義の唯一の後継ではなく、また現在の党中央の民主主義的中央集権制なるものがマルクス主義の唯一の絶対的組織原則ではない事を証明し、問題点を指摘好著だとおもいますが