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風来坊様へ

2005/10/25 銀河 60代以上 画家

 ローザ・ルクセンブルグとカールリープクネヒトは1919年1月15日にノスケの命 によって射殺されています。一方ロシア革命は1917年10月でありその間はわずか1年3ヶ 月しかありません。又ローザとカールは射殺される直前まで投獄されていました。だ からロシアで起きていることがよくわからなかったと思います。
 この短い期間の出来事をざっと繰り返してみます。
 ロシアでは1917年2月革命で皇帝が打倒され、ボリシェヴィキと闘うためにケレンス キーやツェレテリによって召集された黒百人組の連中が非常に計画的に労働者を襲撃 し、彼らの指導者たちを撲殺し、街頭で個々の労働者に制裁を加えたのであった。
 11月25日第二回全ロシア労兵大会で反革命に対してソヴィエトの防衛という目的を 掲げて革命的軍隊を動員することが議題に上った。そこにはボリシェヴィキと,左派 エスエル、その他アナーキストが加わった。軍事革命委員会の行動に反対した右派エ スエル、メンシェヴィキは大会から脱落した。
 大会はソヴィエト権力の樹立を宣言。平和と土地、軍隊民主化、労働者統制、憲法 制定会議の招集、パンと生活必需品の都市農村への供給、民族自決などの目標を決議。
 ボリシェヴィキは憲法制定会議までの「臨時」の労農政府として、人民委員会議を 設置することを提案した。左派エスエルに参加を断られたために単独政権案を提起し た。他の政党は、全ての社会主義党派の代表からなる政府を主張したがボリシェヴィ キは賛成多数で押し切った。成立勅語の十月27日、人民委員会は労農政府に公然と反 抗し、不服従を呼びかける新聞の発禁を布告した。29日首都で叛乱を起こした士官学 校生鎮圧。首都反抗を目指すケレンスキー軍も制圧した。モスクワでの叛乱も制圧し た。
 それからソヴェと政権の全国化に進む。まず兵士革命の目標が掲げられ陸軍最高司 令官,ドウホー人に九千交渉の開始命令を出したが彼が命令遂行を拒否したため、罷 免。新政権が全国に復員を打電した。それから憲法制定会議の選挙をロシア史上初め ての普通選挙で行った。ボリシェヴィキは年の守備隊と労働者の中に圧倒的な支持を えた。12月、2日ドイツと休戦。中央4カ国同盟とも休戦協定が結ばれた。ここに第一 次世界戦争がロシア革命によって終結し人類未曾有の殺戮が終わったのである。11 月17日個々の企業の国有化。
 それから内戦と干渉戦がはじまる。
 激しい党派闘争と革命を守り発展させようとするせめぎあいが当然見えると思いま す。ローザはドイツにあり、ロシアでの日々変化する状況は見えていなかったと思い ます。又レーニン的党組織がロシア革命を成功に導いたのだが、スパルタクス団はど のような組織だったのだろうか。私は知りません。しかし、厳しい革命闘争に耐えう る党としては民主集中制は不可欠のものだと思います。
 その後エスエルやメンシェヴィキが反革命に転落していく中で一党独裁が事実とし てでてきたのであるが、そこではローザは生存していません。レーニン時代の1党政 権がスターリン主義の土壌になったのは間違いないがそれをもってレーニンとスター リンを同一視することは出来ないのではないかと思います。又マルクスの正当な後継 者ではないと否定することは出来ないのではないでしょうか。
 レーニンとスターリンを同一視することにおいてロシア革命の世界史的意義を無視 し、社会主義革命そのものを否定する結果にならざるをえず、それこそが不破と日本 共産党指導部の狙いではないでしょうか。

 長文になりそうなのでこのあたりにします。ローザがそのようにボルシエヴィキを 批判したがレーニンとトロツキーはローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒ トの氏を悼み細大の賛辞を送っていることをトロツキーの文章の抜粋で同時に投稿し ます。

1919年1月18日にペトログラードで開かれた追悼集会でのトロツキーの演説の 抜粋
http://www.marxists.org/nihon/trotsky/1910-3/l-l.htm

 1918年11月9日以後にドイツが陥った事態の国内的・国際的分析は、革命的 予測と同様に、誰よりもまずローザ・ルクセンブルクから期待することができたし、 期待しなければならなかった。直接的行動への呼びかけと――一定の時機を見計らっ た――武装蜂起への呼びかけは、おそらく、誰よりもまずリープクネヒトから発せら れた。この2人の闘士は、これ以上にないほどうまくお互いに補い合っていたのであ る。
 まことに、反動はこれ以上に価値ある犠牲者を選ぶことはできなかったろう。何と 正確な一撃であることか! だが反動と革命がお互いに相手をよく知っていたことは 何も不思議なことではない。けだし、反動は今回、労働者階級のかつての党のかつて の指導者の姿をとって現われているのだから。シャイデマンとエーベルト、この2つ の名前は、この謀殺を組織した責任者の恥ずべき名前として、永遠に歴史の黒書の中 に書き込まれることだろう。
 第2インターナショナルの指導者たる「マルクス主義的」ドイツ社会民主党とは、 戦争の第1日目とともに労働者階級の利益を裏切り、ドイツがベルギーを破壊しフラ ンス北部の領土を強奪している最中にこの無法きわまるドイツ軍国主義を支えた党で あり、ブレスト講和の時に10月革命をドイツ軍国主義に売り渡した党であり、英雄 的国際主義者カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを殺すために邪悪な 徒党どもを組織したシャイデマンやエーベルトがその指導者となっている党なのだ!  
 何と恐るべき歴史的倒錯! 何世紀も昔にさかのぼって見渡せば、ある種の類似物 がルクセンブルクとリープクネヒトは牢獄から出るや否や、ともに手を取り合った。
 この疲れを知らぬ革命家とこの不屈の婦人革命家は、ドイツ労働者階級の最良分子 の先頭に立って、新しい闘争とプロレタリア革命の試練に向けてともに進んだ。そし て、この途上の最初の一歩が踏みだされた時、裏切りの一撃が同じ日に2人の命を奪っ たのである。
 ボリシェヴィキと闘うためにケレンスキーやツェレテリによって召集された黒百人 組の連中がどれほど計画的に労働者を襲撃し、彼らの指導者たちを撲殺し、街頭で個々 の労働者に制裁を加えたかを、われわれは十分すぎるほどよく覚えているカール・リー プクネヒトとローザ・ルクセンブルクは、このような永遠の像である。
 われわれは、彼らがわれわれと共に居ることを、驚くほど直接的に、ほとんど物理 的なまでに身近に感じている。この悲劇的な瞬間に、恐るべき知らせに嘆き悲しんで いるドイツの、および全世界の最良の労働者とわれわれは心を一つにしている。われ われはここで、ドイツのわれわれの兄弟と同じぐらい、この打撃による衝撃と悲しみ とを味わっている。われわれは、われわれのすべての闘争と同様に、慟哭と悲しみの 上でも国際主義者である。

 リープクネヒトはわれわれにとって、ドイツの指導者であるというだけではない。
 ローザ・ルクセンブルクはわれわれにとって、ドイツ労働者の先頭に立ったポーラ ンドの社会主義者であるというだけではない。そうではなく、彼ら2人は世界のプロ レタリアート自身にとって、われわれ全員と精神的な堅い絆で結ばれた兄弟である。 彼らはその最後の息をひきとるまで、国家にではなくインターナショナルに属してい たのだ!