「科学的社会主義」によるならば、要するに売るものだからである。
では、売るものではないものならば商品形態をなさないのだろうか?
生産物をどんなにいじくりまわしてみても、生産物に商品形態の素性を押し付けるものはない。
生産物が商品形態をなすのは、その生産過程の物質的な条件以外にはない。
その条件が、生産手段である。
生産手段に多くの労働が積み上げらけること、しかも、生産手段の再生産部分として消費される生産物が、同時に生活手段にも分裂すること。したがって、同じ生産物が、二つの違った量に分裂することの再生産によって、生産物の商品形態が物質的に規定されるのである。
だから、ある社会が共同で生産していることでも、生産物は商品形態をなすのである。
物質的な条件とは、ある種類の生産物が二つの違った量に分裂すること、それで生産手段が一切の生産の条件になること、したがって、それらの物質的な条件が再生産されることである。
生産手段の社会的な所有という言葉で、あるいは、共同社会という言葉で商品生産を基礎とした生産様式から疎外されることは不可能である。
「生産手段の再生産部分として消費される生産物」は重要である。
なぜなら、生産力の発展段階を物質的に区別もできるからである。
生産力としての生産物は、人間労働力の源となる食料から、今日の機械力となって消費されている石油までそれぞれの発展段階を規定してきた。人間の社会的な生産関係を規定するのは物質的な条件である。無論、人間の社会的な生産関係として社会主義・共産主義を考えた場合、どのようにして商品生産を廃止するのか?科学的には不可能である。
無論次のことは例外であろう。
すなわち、裸のまま無人島で暮らし始める、というのがそれである。