レ-ニンに対する評価ですが、これは十月革命をどう評価するかという問題です。民主集中生様も投稿していますが、一度、宮地健一氏のホ-ムペ-ジを見てみて下さい。私自身は、一度は、民青の地区専門部員及び共産党員として、活動してきた者として、まだ、宮地氏の見解(十月革命=ク-デタ-説)を全面的に受け入れる事はできませんので、十月革命を基本的には、肯定する前提で投稿します。
レ-ニンは、「コミンテルン加入条件21条」における「民主主義的中央集権制」義務付けには、「現在のような激しい内乱の時期には」と歴史的限定が付されていた。「民主主義的中央集権制」には、「戦争の時代、戦後復興の時代に」民衆を動員するうえでの「党の独占的支配を必然化した歴史的理由がそなわっていた。(ロ-ザ・ルクセンブルグの組織論 加藤哲朗)
しかし、その後レ-ニン。濠、ツ。濠、ャ、民主主義的中央集権制を緩和した形跡はない。むしろ、分派禁止規定のように、より中央集権化を強化していった。である以上、レ-ニンにその誤りの麦芽あり、スタ-リンは、それを拡大再生産していったととらえています。
中野徹三氏の除名に対し、札幌学院大学の教職員支部が、学術論文発表への学問の自由抑圧として猛反対し、党中央が処分のごり押しした結果、教職員支部が事実上崩壊してしまったのに懲りて、除籍(形を変えた第二の除名)を乱発しています。従来は除籍は、党費未納入、及び未結集対策で、支部運営に支障をきたすために行われてきました。除名ならば、所属党支部の決議が必要です。しかし除籍ならば、その手続きを必要としません。異論封じの為に使われています。(例えば荻原遼)
再度強調したい。マルクスは資本主義社会の矛盾点を指摘したにすぎない。社会主義的変革とは、その為の完成した処方箋が、革命政党のかばんの中にあって、それをただ全力をあげて実現さえすればよいものではない。社会主義は、その本質からいって強制されたり、指令によって、導入されるものではないことは明らかだ。何の拘束力もない、湧き立つような生活だけが無数の新しい形態を、即興曲を考えだし、創造的な力をもち、あらゆる誤りを自ら正すことができる。(ロシア革命論ロ-ザ・ルクセンブルグ)
レ-ニンには、絶対王政下のロシアという歴史的制約があるとはいえ、大衆の創造力や大衆に対する信頼が軽視されているように思えます。
権力を奪取する前でも、未来の社会の麦芽があってもいいと思うのですが、現在の党中央からは、それが感じられません。
なぜ、天皇を認めないのか。人間平等の共産主義の精神に反するからだ。なぜ、自衛隊を否定するのか。それが、右翼社会民主主義者と共産主義者を区別する分水嶺だからだ。それさえあいまいする党中央は、改良主義に転落したと言わざるえない。
しかし、基本的立場をあいまいにして、議席だけを確保しても、それ以上進もうとすると、支持してくれたと思っていた人は牙を剥くだろう。自分たちの主張と違うのだから。国民的同意????
これが共産主義者の言うことか。
政党、自然保護団体、権利擁護団体でも、自らの主張をし、それが多数意見になるように、宣伝したり、啓蒙したりして努力している。
それでいて、異論は、徹底的に弾圧、排除する。
党中央はいったいどんな社会を目指そうとしているのか。
ソ連や東欧のような、抑圧された社会は真っ平だ。
しかし、そうなるような、気がしてならない。