まず、改憲情勢にもとめられることは何かといえば、社民と日共の対立の歴史ではなく、共闘であり、新左翼党派への日共党派の排除ではなく共闘であるだろう。
反対する陣営が、対立していて、改憲に勝てるわけがない。
これが、本質であろう。
赤旗声明を受けて、中核とカクマルに対する排除に賛同する意見がにわかに出てきているので、わたしのほうからびしっと反論しておきたい。
まず、本質があって現象があると主張され、中核とカクマルの歴史的党派闘争を本質だとし、これをしたじきにだして、二十労組の陣形に参加している、中核・カクマルをひとつの現象にすぎにいものだとして、この二十労組の陣形を否定しようという人がいるが、この人は短絡的なスターリン主義的弁証法でしかないといえるだろう。
この人からすれば、どんなものだって、本質があって現象があるとし、実態を本質と現象と安易にとらえて、現象から本質をみるということはありえないということのようだ。
だが、現実にあるのは、二十労組の連携であり陣形である。実際、この人が本質としてあげた党派対立を媒介として、今新たな事件的なものが発生している事実はない。
これが、現実である。つまり、この人は、時代がとまっているとしかいいようがなく、弁証法が「変化」の運動だということを理解できていない証拠である。
実際かつての中核とカクマルのあの対立は、なくなっており、たとえば中核派はカクマルを大衆や組合の力で包囲しながら、倒すというように、路線をかえていると思われる。
またカクマルは、JR総連というカクマル最大の組織の分裂をかかえているのが実情ですらある。
これが、現在の中核とカクマルの本質であり基底なのである。
そのうえで、二十労組は、中核・カクマル(JR総連が割れる前からかかわっていたが)の歴史的対立を乗り越えて、形成されているということなのである。
したがって、二十労組という現実がすでにあるのに、中核とカクマルをいれれば、事件を起こすというのは、言いがかりだということである。
しかも、二十労組は、日の丸・君が代・有事法制反対運動から培われてきた運動体であり、その部分には、共産党だけではなく、民主・社民をも包括する運動体として広範囲な労働組合が賛同しているのである。しかし、日本共産党指導部は縄張り争いと、自分たちのなかに食い込まれることを警戒して、あの声明をだしてきたものだというのが実際のところなのである。
また社民党の一部には、共産党と同様に、二十労組の陣形とは独立して、運動をとっていこうという主張するものもいる。
しかし、それは、自分らの党派の囲い込みが、二十労組ではできないからだという裏返しにしかなく、それ自体が、社共共闘の壁をぶち壊していくものにしかならないということがいえるだろう。
はっきりいえば、有事法制六万人集会は二十労組の高揚で実現したが、その後のイラク反戦運動から今日までの経過によって、日本共産党などは自分らの票田獲得のためには自分ら独自の集会でないとだめだと切り替えをはかってきたものだといえよう。つまり、二十労組の陣形を取りやめるための策動を日本共産党指導部は展開しているということなのである。しかし私は、それは改憲反対運動の分裂でしかなく、矮小化でしかないと思うのである。
しかも、そのような縄張り争いや排除をしている場合ではなく、二十労組を媒体にして、左翼全部が共闘し、保守派の九条反対派をも含めて、改憲と戦わなくては、勝てないというのが実際のところなのである。また、二十労組の陣形は、教育基本法改悪反対運動も展開しており、改憲とセットとしての教育基本法改悪反対運動を考える意味でも、二十労組を破壊するほうが反動的でさえあるのである。
しかしながら、赤旗声明にそうような意見をのべているのは、中核とカクマル系の労働組合や市民団体に対する難癖でしかなく、はっきりいえば、日本共産党指導部の新左翼党派との縄張り荒いを後押しするものでしかないということであろう。
私は、そんなことをしている暇はなく、その無用な難癖をする暇があれば、改憲を策動しかけている側との対峙や、改憲に反対するすべての人々を手を結ぶ運動へシフトしたほうが、よほど生産的だと思うしだいなのである。いつまでも、党派の縄張り争いは、票田獲得とはわけがちがうから、やめるべきだろう。
改憲情勢とは、選挙闘争とはわけが違うものなのだということを、 しっかりと確認する必要があるのだと私は思う。