「帝国主義戦争と天皇制権力の暴圧によって、国民は苦難を強いられた。党の活動には重大な困難があり、つまずきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。このたたかいで少なからぬ党員が弾圧のため生命を奪われた。
他のすべての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは、日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった」(日本共産党綱領)
自画自賛の党史ではないか。
1935年(昭和10年)スパイ査問事件で宮本が逮捕され袴田里美も検挙されたときに日本共産党は壊滅しています。その後に南京大虐殺、そして中国への本格的な侵略が始まり、第二次世界戦争に入って行くのです。日本共産党はこの世界戦争に突入する過程で何の役割も果たせなかったということになります。それには弾圧されて壊滅したことの理由があるのですが、弾圧はどの国の共産党も受けてきています。では何故壊滅したか。問題はそこです。たとえ天皇制警察のすさまじい拷問があろうとも、検挙されると自白、転向があたりまえになっており、彼等が警察のスパイになって手引きをするので芋づる式に共産党員は投獄されていったのです。小林多喜二が虐殺されたのも転向した党員がスパイになって警察の手引きして逮捕されたためです。日本共産党は弾圧にもろかった、ではないでしょうか。そのためにあの戦争を防ぐことができなかったのです。
また31年9月に開始された満州侵略のあとコミンテル執行委員会常任委員会義で東洋部を主宰するクーシネンの報告が32年テーゼであり、日本共産党の方針とされたのです。そこでは日本共産党 の性質をプロレタリア革命と規定した「同志達の誤謬」を批判し、二段階革命つまり天皇制の転覆、地主の収奪に反対することなど民主主義革命を主張したのです。ここにおいて日本帝国主義を打倒し、その侵略戦争をプロレタリア革命に転化すべき方針を捨てたのです。これがコミンテルンに現れたスターリン主義であり各国において革命運動を阻害したのです。32年テーゼは日本の天皇制を封建制の遺構とするいい加減なもので、日本帝国主義のアジア侵略と日本人民支配の道具であることから目をそらしたのです。したがって32年テーゼはそれから始まる中国への本格的な侵略と世界戦争に真向から反対する立場を方針として捨てたのです。したがって日本共産党は戦時には存在しなかったし、方針としても敗北主義だったのです。もしも32年テーゼの反革命性を排除し、帝国主義戦争を内乱へ、革命へと転化させる方針を日本共産党が堅持し、不屈の戦いを継・・・(文字化け)・・・この二段階革命というツアーリ専制支配を打倒した1917年ロシア2月革命、そして第一次大戦を内乱に転化した11月社会主義革命を漫画チックに模倣した方針が戦後も引き継がれ今日の党の方針になっている。すなわち「民主主義革命を経て社会主義革命」に至るという綱領である。まぼろしを見ているのだろうか。日本ではブルジョア民主主義革命はすでに達成された後なのだからまともな人間の考えることではない。民主主義を階級問題から切り離すことで論じられるだろうか。ギリシャの民主主義は奴隷制を基礎とした貴族階級の間の民主主義であり、今の民主主義はブルジョアジーの民主主義であること、社会主義に来る民主主義はプロレタリア民主主義であり、ブルジョアジーを抑圧する民主主義でしょう。民主主義とは多数の少数者に対する抑圧だということです。階級がなくなったとき 民主主義は消えてしまうのです。したがってブルジョア民主主義はプロレタリア民主主義よりも小さな民主主義なのではないでしょうか。日本共産党がブルジョア民主主義を綱領とすることは反革命であり、反労働者的ではないか。
しっかりと歴史を見つめ考えねばならない。