1月27日付、2月11日付の人文学徒さんの投稿を読みまし
た。
これらの投稿については民主集中生さんが簡潔明瞭に批判さ
れていますので(全面的に同意)、私は本質的なことではなく、
感想めいたことを書いておきます。
人文学徒さんは「共産党員たちには日本の宝がいっぱいいる
」「構成員(共産党員)の質が高い」と認識していらっしゃいま
すが、この認識そのものに伝統的なエリート意識(前衛意識、
真理独占意識)を感じてならないのです。
前の投稿では遠慮して書きませんでしたが、私の周囲を見渡
しても、党員と非党員との間にはそれほどの差異はなく、党員
のほうが非党員より宝が多く、質が高いとは思えません。この
さざ波通信の一般投稿、党員投稿を読み比べてもそうです。
たとえば、医療現場では多発する医療事故をいかに防ぐかが
課題となっていますが、患者の要求をもとに対策に取り組んで
いるのは党員医師も非党員医師も変わりません。アメリカ牛な
ど食品の安全対策、ホームレスへの支援、DV問題、ニート支
援、ゴミ問題、障害者への支援などあげたらきりがありません
。むしろ、党員が見向きもしない分野、党員よりも非党員が活
躍している分野のほうが多いでしょう。
日常的に活動している党員がわずか15万人ぐらいだとすれ
ば、これらの人たちがいくら周辺の人たちの声に耳を傾けたと
しても、国民の要求は70年代と異なり複雑かつ多様化してい
るゆえに、日本共産党に要求をまとめることはもはやできなく
なっています。
いや、党員の質は高く、知的想像力を働かせたら可能だとい
うなら、それは傲慢以外のなにものでもありません。
党員、非党員のどちらに日本の宝が多いとか、どちらが質が
高いとかといった議論は意味のないくだらない話ですし、宝、
質の高さを理由に共産党に党の内部変革に期待するという人文
学徒さんの感覚は生きがいサークル的です。
仮に10年先の2016年に、共産党が完全に行き詰まって
民主主義的中央集権制度を廃棄せざるを得なくなったとして、
そのときに党に何が残るというのでしょうか。
人文学徒さんによれば、現在の党の大部隊は高齢化した公務
員、教員だそうですが、2016年にはほとんどが定年退職し
ているでしょう。あえて皮肉をいいますが、そのときに共産党
がまとめることができるのは定年退職した公務員、教員の年金
改悪反対ぐらいではないでしょうか。
民主集中制がなくなれば、党を除名された人たち、離党した
人たちが戻ってくる、あるいは連携ができるというイメージを
抱いているようですが、2016年にはその人たちは何歳にな
っているでしょうか。田口富久治さんは83歳、比較的若い加
藤哲郎さんとて70歳ですよ。民主文学事件のときの小田実さ
んは84歳です。
誤解しないで欲しいのですが、人文学徒さんのみを批判する
ために書いているわけではありません。民主集中生さんが2月
13日の投稿で書かれているように「いま求められているのは
『主体的な(党の)改革案』だと思います」。
これにはさざ波通信も党員投稿者も異論はないでしょう。
これに対して、人文学徒さんは党の改革は民主集中制の廃止
なくしてあり得ず、その見通しは「数十年単位よりずっと速く
廃止される」とされています。しかし、前述したように、廃止
されたときには共産党には何も残っていません。
党員投稿者の方々は改革の道筋、見通しをどのように考えて
いるのか、教えて欲しいから、あえて厭味的表現を使って書い
ているのです。
日本共産党の改革案がなければ、たんなるルサンチマン党員
と言われてもしかたがないでしょう。
ただ、共産党の改革を試みたものの除名された人・離党せざ
るを得なくなった人は多く、共産党の歴史はある意味で改革の
敗北の歴史と言ってもいいかもしれません。だから、人文学徒
さんたちに新たな改革案を求めるのは酷な話かもしれません。
しかしながら、共産党の主体的な改革が無理だとすれば、さ
りとて新党づくりに賛成できないとすれば、いったい、日本の
社会を変革するにはいったいどうすればいいのか、それは真面
目に考え、問題提起すべきではないかと思うのです。(失礼な
表現はご寛恕を)