一昨年、10/07、10/13、12/01 及び昨年04/03付け投書にて、日本による強制連行、挺身隊、慰安婦等の朝鮮人被害者(及びその遺族)、北朝鮮に係わる祖国帰還運動、拉致事件等による日本人被害者に対する、補償と救出を、早期に実現させるために、「被害者救出隊」を北朝鮮へ派遣することの提案を行なって来ました。
これら両軍国主義国家による国家犯罪に対しては、日朝双方の市民が自らの力で自主的に対処し解決すべき問題であり、本来、国家などの反市民的機構に補償やその解決を委ねるべき問題では有りません。
双方の市民がこの問題の真の解決を図るには、日本では、在日朝鮮人とも連携を図りながら、日朝双方で、それぞれの市民が各地にコミューンを建設し、その連合、連帯の力で両国家体制を崩壊させる必要があるでしょう。
しかし、市民の力とその運動は、残念ながら未だそのような現実的な力とはなり得ていないのが実状です。
その一方では、日本による北朝鮮人被害者の多くは死去し、あるいは高齢となり、又、北朝鮮による日本人被害者の加齢も進み、その家族も高齢となっており、この双方の被害者への補償と救出は急がれるものとなっています。
従って、現時点では、日本においては、その政府に対して、市民がなすべきことの「代行」として「北朝鮮被害者救出隊の派遣」を要請しているものです。
1)補償は被害者個々人になされるべきこと
強制連行等日本による北朝鮮の被害者への補償はその本人若しくはその遺族に対して個別に、市民から(当面はその代行として日本政府から)なされるべきものであって、決して「日朝国交回復」などどいう両国権力者間の取り引きで、国家間においてやり取りされてはなりません。補償は国家に対してなされるのではなく、国家権力の犠牲者たる個人に対して直接なされるべきことだからです。市民からなされた補償を、国家(その権力者、独裁政党、軍部等)による詐取、横領を許してはなりません。
そのためには、被害者個々人を特定し、彼らに直接の補償をする為に、北朝鮮全域を対象にした個別の調査が必要で、日本からの救出隊の任務はそこに有ります。
又、北朝鮮への「祖国帰還運動」及び、北朝鮮による国家テロたる拉致事件による日本人被害者については、市民(その代行としての日本政府)による、全域的な調査、捜索、救出がなされる必要が有ります。この調査は、北朝鮮国家権力によるものではなく、また、北朝鮮国家との共同などによるものでもありません。
なお、外国からの派遣団による北朝鮮域内での調査の例としては、IAEAによる原子力問題の他、最近では、WFPが事務所を開設し、スタッフを常駐させて行って来た食料問題調査の例がありますが、日本からの救出隊も長期に渡ることから、そのベース(拠点)を設け、捜索の経験者、通訳(在日の協力者等々)も含め多数のスタッフを駐在させて遂行せねばなりません。
現在、日本政府がなすべき北朝鮮との交渉の内容は、北朝鮮にこの日本からの救出隊の派遣受入れを承認させることにあり、北朝鮮による何か「調査」やその「調査報告」を求めることなどではありません。
蛇足ながら、この北朝鮮に係わる被害者の補償と救出には、国家の枠を超えた市民間の協力は望ましいものですが、米国、韓国等の国家政府と共同で、あるいは各国家権力の集合体である国連機関等に委ねて解決すべき問題ではないでしょう。
2)問題の根源的解決のために
両国の国家犯罪によって、日朝市民に多くの被害者が生まれたわけですが、この問題は、市民の自主、自立とは本来相容れない国家という体制、機構の存在がもたらしたものであります。この国家を廃絶することこそが、永い間の世界各地の市民の大きな課題でありました。 あのパリコミューンを一つの先例とし、その後の、ロシア、スペインその他の地におけるコミューンの経験と、それらが、レーニン、トロツキー、コミンテルン、スターリン等の指揮下に、つまり、マルクス主義の旗の下で、武力によって解体させられた来た歴史については、当時、それぞれの地で発表された記録に語られていることは、昨年の投書の中で、その資料の一部を紹介させて戴いています。
このコミューンに対する共産党による攻撃は、マルクスに、あるいは、マルクス主義に存する、「前衛党主義」、「中央集権主義」、「階級独裁主義」、「議会主義」等々、つまり本来の共産主義がマルクス主義によって歪められたことにその根源があります。例えば、マルクスが、パリコミューンを否定するに至ったことは、マルクスのいわゆる「フランス三部作」だけではなく、クーゲルマン、ニウヴェンフィスとの書簡の中から読めること、あるいは、第一インターにおいて、国家主義、中央集権主義、階級独裁主義に反対して「自由共産主義」、「連合主義」等を主張するメンバーを、政治的、組織的に排除していったセクト的行為が、その後の「左翼」運動におけるセクト主義に継承されて来たことについても既に先の投稿で触れています。
更には、いわゆる「スターリン主義」がスターリンの個人的創造の産物ではなく、マルクス、レーニン等から引き継がれたもので、スターリン死後も、中国、北朝鮮、東欧その他の独裁国家において、あるいは各国の共産党においても、今日まで延命し続けている、きわめて今日的な問題であり、決して過去の遺物などではないことも、先の投稿で述べたとおりです。
日本においては、40年代、50年代は、割愛しますが、例えば、60年安保闘争における日本共産党の行為(安保闘争を反米闘争に矮小化させてしまい、運動が根底的な反体制闘争、日本革命闘争に向かうことを事実上妨害して来た行為)や、その後の、大学闘争において、全共闘系学生等に対して共産党影響下の学生等により繰り返された、事実上当局、体制側と一体化して「大学の正常化」と称してなされた暴力行為(暴力は権力に対して行使されるべきものですが、共産党は50年代初期の「武装闘争」以降は、物理的暴力を決して権力に向けることはなく、共産党とは考え方の異なる者への対向手段、その排除手段、あるいは主導権獲得手段として専ら行使)等に象徴的に現わされてきました。
更には、権力への直接対決を回避する一方で、自立した市民一人一人が常に保持すべき自己の権限を、議員、議会、つまり政治などという反市民的制度へ委任してしまう議会主義への追従、議会制度、政治というものの存在の反市民性、反革命性を見ない特質は、マルクス主義を標榜共産党組織が、実際には、体制内組織、体制維持組織と堕している証左と言えましょう。
また、先の投稿との繰り返しは避けますが、若干追記致しますと、マルクスは、当時のロシアの"Ackerbaugemeinde", "Dorgemeinde"(共同体)に関心を寄せ、ダニエリソンやザスーリッチ宛の書簡の中で、その「共同体」の価値判断につき、西欧先進国の資本主義的発展からの影響、西欧先進国とロシア革命の相互関連性を論じています。しかし、その「共同体」が今後のロシア革命において果たす積極的役割の判断については、そこに「揺らぎ」を見せています。このことが、その後のマルクスの「正統後継者」としての、エンゲルスの「共同体」に対する消極的態度、すなわち、当時の「共同体」の置かれた窮状を、体制変革の立場から救出し、西欧、ロシアにおける革命の「拠点」として把握するという見方からの乖離へと繋がって行ってしまいました。
当時のロシアの事情に対する、マルクス、エンゲルスの見解は、さらに、ラブロフとの往復書簡でも把握できますが、この「共同体」に関しては、それとは別に、トカチョフやトゥールスキー等に係わる次のような露文の資料(その標記が文字バケとなら無いことを願いますが)にても表されています。
Црограмма журнала, «Набат» ноябрь 1875, стр, 1,
ここには、旧来の「共同体」を共産主義的コミューンに変革して、その自治と連合の強化により中央集権的国家権力を弱体化させ廃絶に至らせること等が述べられ、トゥールスキーの考え方(トカチョフとは異なる!?)が比較的明瞭に反映されていると思われる資料です。
そして、このマルクス、エンゲルスの見解は、後年のウクライナ等のコミューンに対し、それを中央集権的統一国家の障害として排除し、同時に各地の「ソヴィエト」組織をも中央国家統制下に置こうとするレーニン、トロツキーの指揮下のボリシェヴィキ党による弾圧にも具現化されました。
更には、20世紀に入り、コミンテルン、スターリンの指揮下でなされたスペイン各地のコミューンへの、武力鎮圧、「自由共産主義者」、「連合主義者」等に対する権力(コミンテルンとその隷属化のスペイン共産党に追随した当時のスペイン共和国政府)による弾圧に引き継がれて行きました。それは、スペイン内戦を、「反フランコ」、「共和国防衛」にのみ押しとどめてしまい、体制変革への革命闘争に進むことへの妨害を生み出すものとなって行きました。
そのコミンテルンおよびスペイン共産党の姿は、20後の日本における日本共産党の姿、つまり、60年安保闘争において、あの日、国会の南通用門を突破した場所で、我々市民、労働者、学生がはっきりと見た、闘争が反体制闘争に向かうことの阻害物として機能し続け、その日も闘争の現場から遁走して行く日本共産党の姿を、まさに予告するものでした。(もっとも、我々自身も、国会や首相官邸を占拠できたわけではなく、格段の体制変革の橋頭堡を継続して確保する力も有してはいませんでしたが、自らの力の無さあるいは誤りを自省する者と、自らの「無謬性」に固執する者との差は、人の知るところです。)
なお、当時のスペインの状況については、先の投稿で挙げました資料以外にも、例えば、スペイン映画"La Lengua de las Mariposas"でも知ることができます。その映画の最後の場面で、官憲に検束されて行く自由を愛する反国家主義者である小学校の先生(”La Conquista del Pan"の読者でもある先生)を慕ってその後を追いながら、教え子の少年が叫ぶ、大人の不条理を告発する一言"Lengua de Mariposas"に対して、現代のスペイン市民が、薄暗い映写会場の中で示した大きな共感の拍手を私は忘れません。
この北朝鮮に係わる被害者への補償と救出につき、我々市民がなすべき、より意義のある具体的な運動のご提案のあることを切望致します。