5月22日付け澄空さんの「筆坂罷免は厳しすぎる処分だったのか?」について。
澄空さんは下記のように筆坂氏を批判されています。
「党の決定である『中央委員の罷免』という処分自体は納得して受け入れていますし、議員の辞職は、党の決定ではなく、罷免処分を受けて彼自身が決めたことです。要するに、少しも『一方的』ではなく、離党したあとになって、『不可解』だとか指導部が『脅迫』に屈したなどと開き直っているにすぎません」
(前置き)
この際指摘しておきたいことは、筆坂氏が「開き直って」いようがいまいが、党内で正規の機関に対する脅迫行為があり、機関がそれに屈する形で決定を覆したという事実は重大なことです。
それは(A)指導部に不満や意見を述べる正規の民主的手続が党本部内に欠落しているか、(B)形式的には手続が存在しても機能を果たしておらず、(C)そのような非民主的運営のスキを突いて謀略的な工作が現実的な力として党に対する決定的な影響力を持った、という事ですから、党を出た筆坂氏の「開き直り」よりも、こちらの事案の方こそ問題にされてしかるべきです。
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次に本題ですが、党指導部による「中央委員解任」「国会議員辞職」という決定に筆坂氏が積極的に従ったことをどう見るかという問題について。「筆坂氏は涙まで流して自己批判し、決定を受け入れたではないか。何をいまさら」という見方は至極もっともであり、党中央の処置への賛否を超えて聞こえる声です。
これについて異論はありません。ただ、この機会に述べておきたいことがあります。それは、筆坂氏の表面上の矛盾した態度を見るだけでなく、共産党固有の「思想問題」という側面からも見る必要があるということです。
筆坂氏が「党のいかなる処分も受け入れる」と身を投げ出した「党」とは氏にとっていかなる存在だったのか? 弁明の機会を返上し、自ら処分の妥当性を考えることすら自己抑制させた「党」とは氏にとっていかなる存在だったのか? ここに筆坂氏の「翻り」を読み解くカギがあると思います。問題の性質上、党の内部にいた者でないと理解しにくい面がありますので、私の党員経験なども交えて私見を述べたいと思います。
党員が「党」というものを意識する時に、党は二つの存在として意識されます。一つは、実体としての党。これは支部や中央委員会などの機関、その建造物や指導部など、具体的な実質を持つ「党」です。もう一つの「党」とは、党員の観念の中にのみ存在する理念的で抽象的な党です。私が党員時代にそれを強く自覚したのは、学生支部指導部に選任された日の激励会の席でした。スパイ対策で防衛要員に守られた部屋の中、壁に張られた真っ赤な党旗を前に杯を飲み干し、同志達と肩を組み、革命歌を歌って党旗に決意を誓い合いました。杯を床で叩き割ることこそしませんでしたが、雰囲気はそれに近いものがありました。
まったく右翼顔負けのことを良くもやったもんだと今でこそ思い返すわけですが、当時は皆真剣そのものです。その時に私たちが誓いを立てた「党」こそが、もう一つの党、理念的で抽象的な党でした。上級機関である地区委員会の幹部に対して、やれ指導がなってない、現状把握に努めよなどと悪態をつき、中央幹部には愛称をつけたり逆に悪口を叩いたりする我々でしたが、理念的・抽象的な「党」の前では誰もが厳粛な力に支配され、ひたすら「誠実」になり、ひたすら忠誠を尽くすというありさまなのです。
こうした状況を「党の物神化」というのでしょうが、この種の「党」は通常は無意識の中に秘められており、何らかの切っ掛けで党員の前に強い存在感を伴って姿を現します。その心理メカニズムについては別途解明されるべきかと思いますが、少なくとも、「党員と党員」という直接的人間関係においてそれは滅多に現れず、「党と党員」という関係が前面に出てくるような状況下でそれが出現するように思います。その典型例が上に書いた私の経験ですが、同様の例として、党による査問や処分会議を挙げることができます。筆坂氏の「自己批判」というものは、そういう場面でなされたものと私は確信しています。
それでは、筆坂氏の「自己批判」が世間的な意味での誠実さを表しているかと言えば、そう単純ではありません。上の方で「誠実」と括弧で括りましたが、査問や処分という場においては被処分者の立場が弱くなることにより、「党」に対する姿勢が「誠実」を通り越して「卑屈」や「自虐」の域にまで進むと考えられるからです。浜野氏がえげつなく開示した筆坂氏の「自己批判文」にはそれを感じさせる箇所が散見されます。
「…を否定できません」「…いたように思います」「のではと、今思っています」「そう強く自覚していたとはおもはないのですが…あったのかもしれません」
全て自己認識の叙述にも関わらず、断定を避け曖昧な結語が目立ちます。これらは、「曖昧で怪しいものはとりあえず自分の欠点に繰り込んでおく」という、卑屈や自虐の心理にありがちなものです。スターリン時代に多くのボリシェビキがスパイや反革命的陰謀を「自供」して粛清されたわけですが、それらを「自供の強要」「でっちあげ」とばかり考えることには違和感を禁じ得ません。
「筆坂氏は決定を受け入れたではないか。何をいまさら」という批判を間違いだと言うつもりはありません。それは筆坂氏が彼を処分した幹部たちとともに「党の物神化」を引き継ぎ支えてきたことの帰結であり、筆坂氏の自己責任に属することだからです。
ただ、物神化した党に対する党員心理を世間一般、もしくはそれに近い「大衆党員」が知らないことをよいことに、これみよがしに筆坂氏の「自己批判文」を晒し、筆坂氏を異常人格者や二心者、セクハラ常習者であるかのような印象を振り撒く党幹部たちの冷酷さは、全ての党員が心に留め置くべきことだと思います。