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風通しがよくなければ国民からの支持は得られない

2006/05/20 青太郎 50代 無職

 ある調査によると、国民の嫌いな政党は共産党と公明党だという。それも両党が他党をダントツに引き離してとのこと。政党交付金も受け取らずストイックなまでに国民の党であろうとする共産党が、創価学会をバックにいつの間にか自民党に取り入って、わが国の反動化の先頭を走っている鵺のような政党、公明党と何故嫌悪政党のトップ争いをしなければならないのだろうか。

 両党は理念では対極にあるが、組織構造や体質はよく似通っていると世間では思われている。この辺りに国民から敬遠されるキーワードがありそうだ。それはある種の権威主義、閉鎖性、トップダウンで剛構造の組織という点であろうか。一方は宗教的忠誠心、他方は民主集中制という組織原理の違いがあるが。

 共産党規約には内部統制を維持するいくつかの条項がある。その一つが指導機関という組織上の位置づけだ。わざわざ指導機関と規定し上意下達を明文化しているところに統制重視の共産党らしさが現れている。しかし機関を構成するのは人。そこではおのずから地位や経験による発言力の差が生まれてくる。共産党には序列がないと公式には言われているが、力関係による見えない序列は厳然とあるはずだ。しかも指導機関は規約上役員を推薦(実際は任命である)する権限を有している。だから組織の権力は必然的に特定個人に集中することになってしまうのだ。

 例えば、志位委員長が自身のウエーブサイトで、自分がはじめて書記局長に選出されたときの大変な驚きを語っている。書記局長という党の要のポストに選ばれた当人が、候補に挙がっていたことさえ知らなかったというのだから驚きだ。おそらく表決直前に実権を持った人物の鶴の一声で全てが決まった、ということであろうか。もちろん秘密裏に一部の幹部間だけで事前相談はしていたかもしれないが、だがこうした役員選出のやり方ひとつをとっても、上層部の抜きがたい特権思考が見て取れる。選挙人は自由に候補者を推薦できるという規約はまるで意味をなしていないのだ。

 最近、面白いと思ったのは離党した筆坂秀世氏が、こうした役員選出の非民主的な実態を週間朝日誌上の対談で赤裸々に語っていたことだ。氏のセクハラ問題に関してはもちろん何らかのけじめは必要だった。しかし、氏の常任幹部時代の体験談は、事件とは別にこれでいいのかと思うことが少なくない。例えば、先の例のように中央委員会での役員選出ではほとんど不破氏が取り仕切っているらしいこと、常幹会議では闊達な討論はなく、不破氏に発言を促されるような実態だったという。幹部に登用される人たちとは、権力者になびくことには長けてはいるが、主体性のない実務官僚のようなものなのだろうか。

 その不破氏が宮本顕治氏に議長退任を迫ったエピソードに関して(書店に本がないので私はまだ読んでいないが)、赤旗紙上で事実と違うガセネタだと真っ向から指弾し、その後も筆坂転落キャンペーンを繰り広げている。普通の政党ならこの程度の逸話を面白く暴露したとしても、たいしたニュースにもならないが、不破氏は大会中に宮本邸へ行った行かなかった等、およそことの本質とは異なるどうでもいい事柄の言い訳に躍起となっていた。

 高齢の最高幹部に退任の鈴を付けに行った際に、そこでいささかの人間くさいドラマがあったのだろう。冷徹な共産主義者として永く党に君臨した宮本氏でさえ、老齢となって地位への人並みの執着心があったことが伺えて興味深かったが、今となっては既に過去の人。そんな人の最高幹部を退く際の逸話などは、自民党の中曽根氏などの例をまつまでもなくよくある話しだ。だが公党となればそこそこの範囲でその動静は国民に伝えられるもの。

 ところが共産党の場合はそうではない。志位氏の抜擢を待つまでもなく組織の頂点にたつ人事を一部の幹部が独占的に左右し、国民どころか党員にも知らせない。その秘密性、非民主性、形式性にこそ問題の根源があるのに(だからマスコミは好奇の目で見るのに)、不破氏の筆坂批判はこれを覆い隠して、ことさらどうでもいい瑣末な問題に焦点を当て問題点をはぐらかしているのである。

 いま共産党は連日赤旗紙上で筆坂転落キャンペーンを行っている。筆坂問題については、その経緯と措置だけを冷静に発表すればいいだけのことなのに、組織の締め付けを強化する格好の教材にしている。これでは創価学会の異端者への陰湿で執拗な攻撃とどこが違うのだろう。こんな低次元の愚劣な手段に訴えなければならないほど、党員の知的レベルは低いのだろうか。はからずも上級指導機関特権層の、一般党員観が透けて見えているようだ。共産党がこんな前時代的な体質を一刻も早く克服し、風通しのいい政党になることを望んでいる。