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「通行人」氏の自由の概念はおかしい

2006/05/21 アリョーハ 電気労働者

 「通行人」氏の私への反論を読みました。

 「通行人」氏は自由を掲げて、私を批判していますが、「通 行人」氏の自由の概念はおかしいです。

 ブルジョア民主主義では、基本的人権は各自の身体に備わっ ているものであると考えられています。つまり、万人はそれぞ れ一人分の自由しかもっていないのです。

 この「一人分の自由」という概念には、当然、他人の自由を 侵害しないかぎりで自由が保証されるという限定の意味が含ま れています。

 例えば、電車の中で大声で携帯電話をかけるという場合、電 話をかけている人の自由は保証されていますが、まわりの人の 静かに電車に乗る自由は侵害されています。こういう他人に迷 惑をおよぼす自由は日本国憲法もアメリカ合衆国憲法も認めて はいません。

 社会主義のもとでの自由は、形式的なブルジョア民主主義よ りもずっと実質的な内容をもつ自由になるのでしょうが、それ でもやはり他人に迷惑をかけたり、他人にあることをするよう に強制したり、またはしないように強制する自由が万人に権利 として認められるとは思いません。

 「通行人」氏が主張している自由というのは、自分の見解を 他人のサイトで主張する自由のことだ、というのですから、当 然そのサイトに対する強制を含んでいるでしょう。(強制はし ないといっても、認めないことは許しがたいと恫喝するのです から同じことです)そしてこの種の「自由」は他人に対する強 制を含んでいるという点で、本来の自由の概念とはだいぶ違い ます。

 これは自民党の機関紙で共産党の見解を発表させろ、と要求 することと同じであり、創価学会の『聖教新聞』に池田大作の 悪行の数々を暴露させろ、と要求すること、と同じであり、右 翼の機関紙に天皇制廃止要求の広告をのせろ、と要求している のと同じであり、中核派の機関紙『前進』に「反革命ポンタ( 故本多委員長)は殺されて当然だった」という意見を載せろと 要求するのと同じです。

 「通行人」氏はこういう「自由」が本当に「基本的人権」と して存在すると思うわけですか?

 ところが話を聞いてみるとどうもそうではないらしい。つま り、「通行人」氏はある特定の団体なり、個人を対象にして、 こういう一部の連中は許しがたいから、悪態をこきたい、活動 の妨害をしてやりたい、そういう自由を保証しろといっている ように聞こえます。これって、もしかしたら、いじめとか差別 とかいやがらせというものではないですか?

 私は「通行人」氏がいくつかのサイトで実際に行っているい やがらせの数々を例示してもいいのですが、それは必要ないで しょう。なぜならこれは多くの人がすでに知っている事実なの ですから。

 光栄にもわれわれは「通行人」氏が憎悪するその特定の団体 なり、個人に該当するというわけですが、「通行人」氏はここ でも許しがたい中傷を行っています。

 すなわち、われわれがマルクス主義を宣伝することを目的に 設立された団体のサイトでマルクス主義はもう終わったという 見解をそのまま乗せることは無責任であると述べたことに対し て、「通行人」氏は君たちは見解の相違を認めないのかと恫喝 をかけてきています。

 これについてはきちんと答えたいと思います。

 しかし、その前に「通行人」氏はわれわれが「マルクス主義 を宣伝する」と述べているのに「布教の間違いでは?」などと 言っています。これはどういう意味でしょうか?マルクス主義 は宗教などではありません。マルクス主義を超える社会科学を 人類はまだ生み出していないのだから、今のところマルクス主 義は依然として人類最高の社会科学にとどまっています。です からこれを研究し普及させるということは宗教活動とはまった く別の性格のものです。

 ところで、自発的な社会的団体は、各人の自由な意志で結合 しています。共産党であるならば、共産党の思想なり、政策に 共鳴するからこそ、各自は自分の意志で党員になるのです。だ からこの団体は強制によってつくられたものでも、人々を無差 別に抽出して構成された集団でも、身分制度のように固定され たものでも、血縁関係によって構成されたものでもありません 。なんらかの共通の理念なり、共通の思想なり、共通の意志を 持って自発的に形成された社会集団なのです。近代的な政党と いうのはどこでもこのようなものでしょう。

 もちろん、共通の目的を持った者が自由な意志によって結合 したと言っても、一定の目的を持った社会集団である以上、目 的達成のために、当然、規律なり、秩序というものは存在しま すし、各個人の個体差から来る差異というのもあるでしょう。 何を大切に思い、何を重要と考えないのか、どこへ行くべきか 、AへかBへか、さまざまな問題をめぐって食い違いが生じう るからこそ、同じ政党に所属しても議論があり、内部対立があ り、分派活動などが生じるのでしょう。われわれはこういうこ とを否定したことはありません。こういうことはルールにした がってきちんと議論すればいいだけの話です。また例え指導部 が議論を禁止したとしても、本当に同意できない人は同意でき ないと言うのです。

 もう何十年も前になりますけど、われわれが電柱にビラを貼 っていた時代に、ある同志がビラ貼りに出かけるときに、突然 、「ビラ貼りは違法行為だからやめよう」と言いだして、議論 になり、深夜に、ああでもない、こうでもないと延々と議論を やって、結局、朝方近くになってようやく全員一致でビラ貼り に出かけることが決まったけど、現地に行ったらもう太陽がで ていてビラ貼りを始めたらすぐ警官に見つかって早朝の街を逃 げ回ったという笑い話みたいな話がありますが、われわれはこ れを否定的な意味で引用しているわけではありません。全員で 一つの課題に取り組むためには全員が納得する必要があり、議 論はそのための重要な手段であると私はいっているのです。自 分たちが下した結論の結果については受け入れるしか仕方のな いことでしょう。

 1917年の10月革命の時にも、ボリシェヴィキが武装蜂 起を決めているのに、カーメネフとジェノビエフは「ボリシェ ヴィキは武装蜂起を計画しているが自分たちは反対である」と マスコミに漏らして問題になりました。この時、カーメネフと ジェノビエフは中央委員を一時的にはずされたが、党を除名に なることはなかった。(私はカーメネフとジェノビエフの行為 はルールにのっとった議論ではないと思いますが、彼らを除名 しなかったレーニンを支持します。)

 のちに彼らはスターリンのもとで反革命として処刑されます が、ボリシェヴィキが許したことをソ連共産党が許せなかった のは、スターリンのもとで政党の性格が変わったからです。ス ターリンのもとで自由な意志によって結合した政党から特権を 擁護し、自らの特権を脅かす者を排除する政党へとソ連共産党 は変質していったから、彼らは異分子として処刑されなければ ならなかったのです。

 そして、こういうことと社会民主党員が「社会民主党よりも 自由民主党の方がいいのではないか」という話はまったく違う ことです。私が社会民主党の幹部であるのなら、そのような人 には「君は人生の選択を間違えたのかも知れない、今からでも 遅くないから、よく考えて、政党を選択し直すというというこ とも考えた方がいいではないか」とアドバイスします。これは 社会民主党だけではなく、どの政党でもいえることではないで すか。自由な意志で結合した団体で、自分の意志と集団の意志 が乖離しているとしたら、そして自分の選択が間違っていたと 考えるなら、その集団から離脱するほかないわけです。

 別に、新撰組のように脱退は斬首などという規律をもってい る団体はないわけですから、自らの団体選別権を行使すべきで しょう。

 もちろん「さざ波通信」氏のように共産党に残って、共産党 を変えようという努力を私は否定するつもりはありませんが、 それでも政党政治の基本から言えば、一つの政党の中にまった く異なる潮流が存在するのは奇異なことです。

 自由民主党の中にも、民主党の中にも、「派閥」があってま ったく異なる潮流を形成しているではないかという人がいるか も知れませんが、それはこれらの政党が政治理念ではなく、現 実的な利益をもとに結集しているからであって、労働者を基盤 に置く政党ではないからです。

 「通行人」氏のように、自由な意志に基づく集団内での自由 とブルジョア民主主義の自由を混同して、言いたいことを言う のが自由だというのは無政府主義的です。目的を持った集団内 部での集団の目的に反する言動は無制限には認められません。 議論は一定のルールと範囲に基づいて行われるべきであり、何 を言ってもいいのだということになれば集団の存在意義そのも のがあやふやになってしまうのではないですか。

 それとも「通行人」氏はある政治的目的を持って集団を結成 すること自体を悪とするわけですか、政治的目的を持った集団 であるから集団内の言論の制限が必然的にうまれるとしたら、 政治的目的を持った集団を禁止すれば、言論の自由(この場合 の自由というのは「通行人」氏にとっての自由ということです )が完全に保証される、このようにいうのであれば、この「自 由」はブルジョア民主主義での自由とも完全に相異なるもので す。