私が自由な言論の場の重要性を指摘したことに対して、
今度、氏は「自由の概念」一般に話をすり替え、ながながと「
高尚な」自由の哲学論議をされている。
しかし、前回の私の指摘--私が「左翼党派全体」に関して
何かを指摘しているわけではないこと--をお認めになられる
のだろうか?
それと、さざ波通信という自由な言論を一定程度保障してく
れるこうした場があるがゆえ、あなたともこのような言論の(
不十分ではありながら)交流が出来るのだということをまず肯
定的に評価したいのだが、それはいいのだろうか。
ここであなたとは出来て、AやChやGやH(それぞれ掲示
板主宰の方のアルファベット。ハンドルでも支障があるかもし
れないので配慮)という方々の掲示板では出来ない、それは何
より彼らにとって不幸なことなのだ、と私が言いたいのは結局
、この程度のことでしかない。
私はアリョーハ氏の掲示板が存在するのか知らない、したが
って投稿もしてないし、排除された経験もない。
だから、あなたの私への批判は奇妙な横槍でしかないと、改
めて確認しておく。
ただ、まあ少しだけ内容的なことについて言っておこう。
別に私は、八百屋で魚を求めて、魚がないからけしからんと
文句を言っているわけではない。
ただ、米国産牛肉が危険なのでいっさい取り扱わないという
肉屋に行って、米国産牛肉は安全だから置かないのはけしから
ん、と言っている程度の差はあるのかもしれない。
問題は、その基準をどこに置くかだ。
米国産を基準にしていいか悪いかで立場を分ける、それはそ
れで明白になるかもしれない。
しかし、基準点は次には豪州産がいいか悪いか、という具合
に変わる可能性がある。
日本産では松阪牛でなければ駄目だ、とか、いやそうではな
いとか。
このように基準点はさほど明確で固定されたものではない、
ということだ。
だが、おそらくアリョーハ氏にとっては、その基準点は常に
絶対に明白なのだろう。マルクスやレーニンへの批判は一切許
されない、ということですね。
何か、ここでの反戦氏の主張と近似しているように思えるが
、それはさておき、ほかの方にもそれが絶対の基準なのかとい
うと、それは必ずしもそうではない。
たとえば、こちらでの、スカンジナビアンさんと反戦さんの
議論。
おそらく、まったく関心のない人にとっては、同じ左翼同士
(「同志」ではない)でなんでこんなに意見が違うのか、不思
議に感じることだろう。
ところがご両人にとっては、お互いがもはや不倶戴天の敵な
のだ。
選別の基準を勝手につくり、他者と自己の区分けをする。
そういう態度では、他者の存在を認めずに自閉した世界に満
足することになる。
それはある種の「宗教」でしかないから「布教」という言葉
を使っただけのことで、そう言われて反発すること自体、心の
底で自分たちの信念が偏狭で排他的なものであると薄々感じて
いることを表していよう。
そうした「引きこもり」がいかに危険な心理に堕ちるか、一
例を挙げれば、先ほど挙げた掲示板主宰者のうちHという人物
である。
氏は特にヒステリックで、批判する他者をやたら右翼だ、公
安だと断言するのが特徴だ。
普通の市民が自分を批判することなどあり得ず、批判するの
は何らかの「職務」「信念」にもとづく行為なのだと思い込み
たいのだ。
私なども、氏の掲示板では「千葉に住んでいる右翼団体の構
成員」にされてしまった。
何でも「インターネットで○○研究所」を主宰している極右
の某氏に、さざ波通信でのHの投稿を批判されたことがあるか
ら、私がその某氏なのだと、よく分からない「論理」で、その
人の固有名詞を名指ししている(もちろん私は別に右翼団体の
構成員でもないし、極右のホームページをつくってもいないし
、千葉の住民でもない)。
これは、明らかに被害妄想ではないか。
AやChやGやHは普段は、たぶん正義感に満ちた善良で良
心的な人たちなのだろう。
ただ、自分の信じる世界観なり価値観を絶対だと感じるあま
り、異論を一切受け付けなくなっている。
批判の存在を認めることが他者存在を認めることにつながり
、寛容の精神の醸成ということにもなる。
そうでなければ、支持者が広がるわけはない。
最後に、アリョーハ氏に確認したい。
ある団体内で決められたことは守るべきだというなら、あな
たが日本人なら日の丸・君が代は尊重しないといけないことに
なるし、現憲法には改定のルールもあるのだから国民投票法案
を支持しないとならないことになるが、それでいいのでしょう
ね?