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「通行人」氏へ

2006/06/02 アリョーハ 50代 電気労働 者

 あなたは一体何が言いたいのでしょうか?

   自由な議論をお望みなのでしょうか?

 違うでしょう。あなたが言っていることはA、B、C、Dの 名前をあげて、こういう連中のサイトでA、B、C、Dをそれ ぞれ批判できないのはけしからんということなのでしょう。

 これは自由とはまったく関係のないことです。当事者間の問 題にすぎません。あなたがもし、A、B、C、Dの各氏と議論 したいというのであれば、彼らに議論させてくれないかと頼め ばいいのですよ。それで断られたらそれは仕方のないことなの じゃないですか。

 ところがあなたはそれ以上のことを求めている。だから私は おかしいと言っているんですよ。「自由な議論」の中にはそう いうこと(論争したくないという相手に無理矢理論争を強要す るというようなこと)は含まれていません。しかも「通行人」 氏の場合に、要求しているのは議論ではなく、「批判」の掲載 なのですから、A、B、C、D各氏の活動を妨害したいという 意図しか見えてこないわけです。

 しかも「通行人」氏のその意図には賛同しがたいものがある 。

 今回、「通行人」氏は、「肉屋に肉がないことはけしからん 」ということと「肉屋に米国産牛肉がないのはけしからん」と いうことを引き合いに出して、「問題はその基準をどこに置く のか」ということだなどといっています。

 しかし「肉屋に肉がないことはけしからん」ということと「 肉屋に米国産牛肉がないのはけしからん」というのは程度の問 題でしょうか?この場合、基準はまったく明白ではないでしょ うか、牛肉を食べる労働者にしてみれば、BSEに感染した疑 いのある牛肉を食べさせられるのは、お断りということなので あり、牛肉の産地などの問題ではないはずです。

 「通行人」氏は、このように質的な違いの問題を量的な違い の問題、すなわち程度の問題に「すりかえている」ています。 これは「さざ波通信」で繰り広げられているスカンジナビアン 氏と反戦氏の論争に応用されており、「通行人」氏は同じ左翼 同士でなぜこんなにも違うのか?といっています。

 そして、

 「選別の基準を勝手につくり、他者と自己の区分けをする。
 そういう態度では、他者の存在を認めずに自閉した世界に満 足することになる。
 それはある種の『宗教』でしかないから『布教』という言葉 を使っただけのことで、そう言われて反発すること自体、心の 底で自分たちの信念が偏狭で排他的なものであると薄々感じて いることを表していよう。」

 といいます。

 最初に、言っておきますが、この問題は左翼度40%のスカ ンジナビアン氏と左翼度60%の反戦氏にあって、反戦氏が左 翼度50%のところで線を引き、他者と自己の区分けをしたそ れが問題だと「通行人」氏は言うのですが、そうではないでし ょう。

 スカンジナビアン氏と反戦氏の違いは質的なものです。違い は北欧などの例を出して資本主義を変革しなくても改良を続け ていけばいいという社会民主主義を説くスカンジナビアン氏と それに反発する反戦氏との違いでしょう。

 ただ残念なことに反戦氏の主張は相当混乱しています。

 というのは反戦氏は、スカンジナビアン氏を「帝国主義社民 」と非難する一方で、自己を「戦闘的社民」と位置づけている からです。スカンジナビアン氏と反戦氏の違いが「帝国主義社 民」と「戦闘的社民」の争いであるのであれば、それは「通行 人」氏がいうように、単なる社会民主主義内の色合いの違いで しかないということになるのですが、反戦氏の場合、これにレ ーニンが加わるので何をやっているのか、何を言っているのか さっぱりわからないということになるのです。

 これは彼がかつて所属していた組織の影響からまだ抜け切れ ていないことから来ています。新左翼と一括して呼んでもいい と思いますが、60年代、70年代の学生運動から派生した新 左翼運動は、、「世界革命」等々の勇ましい言葉とは裏腹に、 実に貧弱な政治思想しか持っていませんでした。それが一方で は社会党に対する憧憬と無条件の美化になっていったし、現在 もなっています。

 そしてその政治的貧困を覆い隠すためにこそ、彼らは、実力 闘争、爆弾闘争といった行動の極端化の中に自分たちの存在意 義を見いだそうとしたし、その運動が行き詰まると「内ゲバ」 という最悪の自滅コースを歩んだのでした。自分たちと対立す る党派に「公安の手先」、「右翼」等々のレッテルを貼って殺 し合うというのは、彼らの運動自体がすでに破産しているとい うことでしかありません。

 ところで、「通行人」氏はこういった反戦氏の新左翼の残滓 を批判しているのでしょうか?

 どうも違うようです。「通行人」氏が問題にしているのは、 反戦氏が、スカンジナビアン氏と反戦氏の主張の間に区別を設 けたことであり、「通行人」氏は反戦氏がこのような区別を設 けたこと自体を「他者の存在を認めずに自閉した世界に満足す ることになる」などといって非難しており、これは「宗教」と 同じであるといっているのです。

 しかし、資本主義的生産様式を廃棄して社会主義へいたると いう政治と資本主義を廃棄せずに改良を通して理想的な社会を 建設するという政治はすでに19世紀の終わりにするどく分岐 していたのです。

 ベルンシュタインが彼の修正主義、改良主義の論文をまとめ て発表したのは1899年です。この時、シベリアに流刑され ていたレーニンは流刑仲間の署名を集めて「ロシア社会民主主 義者の抗議」という日和見主義的な潮流に対する批判を行って います。

 以来、20世紀を通して全世界の「社会主義運動」は社会党 と共産党という二つの潮流に分かれていました。「通行人」氏 はどうしてこういう簡単な歴史的事実を見ないのでしょうか私 には不思議でたまりません。

 しかも、資本主義的生産様式を廃棄して社会主義へいたると いう政治と資本主義を廃棄せずに改良を通して理想的な社会を 建設するという政治は同じではないと主張すること自体が「他 者の存在を認めずに自閉した世界に満足することになる」とい うのですから、何を言っているのかさっぱり分からないわけで す。

 もちろん、私はマルクス主義者ですから、資本主義的生産様 式は必然的に社会主義へいたるということを確信しております 。「通行人」氏は私に「心の底で自分たちの信念が偏狭で排他 的なものであると薄々感じている」などといっていますが、も ちろん私の信念は一点の曇りもないものであり、私の人生で信 念のために、すべてを失わなければならなかったことは何度も ありました。しかし信念が動じることは一度もなかったという ことだけは申し上げておきます。

 ところで、「通行人」氏がいう、「偏狭で排他的なもの」と は何でしょうか?

 「通行人」氏によれば、「自分の信じる世界観なり価値観を 絶対だと感じるあまり、異論を一切受け付けなくなっている。 批判の存在を認めることが他者存在を認めることにつながり、 寛容の精神の醸成ということにもなる。」ことなのだそうです 。

 この言葉も何を言っているのかさっぱりわかりません。自由 民主党にせよ、民主党にせよ、社会民主党にせよ、反動バカ右 翼にせよ、それはすでに他者として存在しているでしょう。気 に入らないからと言って頭の中だけで否定しても何にもなりま せん。

 どうも「通行人」氏が言うことはもっと違うことのようです 。通行人氏は「批判の存在を認める」という言葉を「批判を受 け入れよ」と言っているのではないですか?

 つまりマルクス主義者にマルクス主義以外の党派の見解も認 めよ、それが「寛容の精神の醸成」につながるのだと言ってい るのではないでしょうか?

 だとすれば、これはマルクス主義者にその党派性を放棄する ことを要請しているのではないでしょうか。しかし何でまた? マルクス主義者以外の党派の党派性は承認して、マルクス主義 者の党派性を「偏狭で排他的なもの」として承認しないという のは、何かとても不公平のように思えるのですが、どうしてマ ルクス主義者だけがその党派性を放棄しなければならないので しょうか。

 党派性という言葉が分からなければ、区別という言葉を使っ てもいいのですが、いろいろな政党はその政治的な立場によっ て区別されているでしょう。

 共産党と社会民主党はおなじ政治的な立場に立っていないか ら、別々の政党として存在しているのです。だから、何度もい うように社会民主党の見解がいいというのであれば共産党をや めて社会民主党に入って活動すればいいのですよ。

 私はそういうことを否定したことは一度もない。しかし、そ ういうことと社会民主党の立場の方がいいから共産党は解党し て社会民主党員になればいい、そういうことを認めないのは「 偏狭で排他的な」立場だということは同じではないでしょう。

 もちろんこれは共産党内部の問題であり、私には関わりのな いことですので、共産党の方々の判断におまかせしますが、「 共産党は社会民主主義になるべきだ」という見解が認められる とするなら、反対に「冗談じゃない日和見主義とは断固闘うべ きだ」という見解も認められてしかるべきではないでしょうか 。

 ところが「通行人」氏によれば、後者の見解は「引きこもり 」であり、「他者の存在を認めずに自閉した世界に満足するこ とになる」から許せないというのですから、その主張の不公平 感はますますつのるだけです。

 これについてはマルクス主義者は昔からこのような中傷にも かかわらず、献身的な活動によって多くの人々の支持を得てき たという歴史的事実を紹介するだけでいいでしょう。

 そして極めつけは、「通行人」氏は私に対して「お前は一切 の批判を認めない」などと悪罵を投げかけていることです。

 何度も言いますが、こういうことは認める認めないという問 題ではないでしょう。私は集団である以上、意見の食い違いは 社会生活のあらゆる部面から出てくるといったはずです。そし てこういう問題については議論が必要だし、時には激しい分派 闘争にまで発展することもあるとも言いました。分派闘争の結 果、不幸にして意見の一致を見なければ、組織は分裂するしか ないわけですから、ギリギリの妥協点を模索するといったこと もあるでしょう。しかし私には腫れ物に触るように意見の対立 点をそのままにしておくということは政治的にも正しくないし 、そういうことよりは意見書が乱れ飛ぶような議論が組織とし ては健全ではないかと思います。

 ところが「通行人」氏が主張するのは、逆のことです。意見 の対立点があると言って、一方が他方を批判すること自体が不 寛容で許しがたいことであるというのですから、むしろ「通行 人」氏の見解は「批判の自由」を掲げてレーニンに反対したメ ンシェヴィキの見解に似ているのではないでしょうか。メンシ ェヴィキの「批判の自由」というのは、早い話、自分たちを批 判しないでくれ、ということでしょう。自分たちがレーニンを 批判するのは自由だが、レーニンが自分たちを批判するのは「 偏狭で排他的なもの」だなどというメンシェヴィキの見解はそ れこそ「心の底で自分たちの信念が偏狭で排他的なものである と薄々感じていることを表している」だけじゃないですか。

 メンシェヴィキは自分たちの見解に確信を持てなかったから こそ、「小さな差異を言いたてて、自分たちとレーニンの間に 区別をもうけようとするのは偏狭で排他的だ」と主張して「批 判の自由」を掲げて、主張の是非ではなく、レーニンが自分た ちを批判すること自体に反対してレーニンと闘ったのでしょう 。

 ところが実際には、メンシェヴィキとボリシェヴィキの差異 は小さいものでも、偶然のものでもなかった。

 そういう点でも「いつもながらのすりかえ」をやっているの は私ではなく、「通行人」氏ではないですか。「通行人」氏は 私が何かを言うたびに、論点をすりかえ、すりかえ、自分はそ ういうことは言っていない、言っていないといいながら、戻っ てくるところはきまってメンシェヴィキの「批判の自由」です 。「通行人」氏ははっきりと自分が要求しているのはメンシェ ヴィキの「批判の自由」なのだということをいうべきでしょう 。

 重要なことを隠しながら議論しているから、「通行人」氏が いうことはなにも分からない。

 なお、他党派の人間が余計なことをいっているという「通行 人」氏の批判は私には耳が痛いですので、「居候(いそうろう )三杯目をそっと出す」ということで、これでやめます。

 最後に、「通行人」氏は私への批判の最後に、何か意味不明 なことを書いていますが、私は「自由な意志で結集した団体」 について語っているのであって、「自由な意志に基づかない団 体」について語っているのではないので、誤解のないようにお 願いします。