十年位前に新日和見主義のことで話していたら、「遺しておくこと」 (ある新日和見主義者の回想)という油井喜夫氏のコピーをもらった。その時も、目を通したが、汚名と同じ内容だと思っていた。しかし虚構を読んでいたら、極親しい友人に遺書として渡した別の著作だと判ったので再度読み直して見た。決定的に違うのは、この本は、油井氏の離党前だったことである。以下引用してみる。(名前は汚名に合わせる)
「無届集会」は非合法
私が代々木の党本部で査問に入ったとき、「新日和見主義分派」の実態解明は相当すすんでいたようである。少しばかり隔てたところで、誰かがやられていることも雰囲気で判る。そして党中央は半年間あまりの私の動向もほとんど掴んでいた。
いきなり「党員権の制限」を宣告されたときには落雷の直撃にも等しいほどの衝撃で、はたして人間的な精神機能を維持できるのかとさえ思うほどのショックであった。私はただただ茫然自失の状態であった。しかし、今考えてみると、それを克服できたのは共産党員としての自覚と責任、党に対する忠実性にこそあったものと思っている。
私は査問に誠実に応えるように勤めた。事実は事実でありのままに「供述」しようと思った。べつに党中央が私の動向を握っているので、「ウソ」を言ってもバレると判断したからではない。心底そう思ったのである。
私や、私の世代はもともと党に忠実である。個人としても、党に嘘をついたことがない。また、そのように教育されてきた。だからこそ、それまで自分にとって無縁の「環境」でしかなかった査問においても、誠実な共産党員でありえたのである。
ただ、除名だけは恐れた。除名されれば、元も子もない。
意識的な反党分子や共産党との訣別を望む者、裏切り者や脱落者を除けば、科学的社会主義の世界観や階級闘争の理論を知る者にとって、共産党から放逐されることは人間としての存立する意義すら失うほどの意味を持つ。私もまた共産党員であることを、そうした価値観で捉えている。
私は直感的に、もし査問に誠実に応じなかったり、事実と異なる「供述」をするなら、それがたちどころに除名に直結する危険性を有するものと予想していた。そのことは査問官たちの迫力ある非妥協的な尋問姿勢のなかにありありと滲み出ていた。
除名だけは何とか食い止めなければならない。厳しい査問の期間中、私はこのことを片時も忘れなかった。
査問官たちが最大の関心をもって追求し、事実報告を求めたもののなかに「新日和見主義者」の個人的「集まり」がある。
党中央はどの程度までのものを、「新日和見主義者」の「集まり」や「会合」と判断したのであろうか。おそらく、その数も数え挙げられているに違いない。「新日和見主義者」として処分された者の人数から推してみるとき、それは相当数にのぼるものと思う。それでいながら、「新日和見主義者」の誰も数えることはできないだろう。
私もまた、自分の知らないところで、どんな「集まり」が行なわれ、なんの「会合」が「組織」されたか知る由もない。党中央のみぞ知るである。
党中央は「新日和見主義者」の個人的な「集まり」を「分派会議」と認定する。従って、その「集まり」は「規律違反」の構成用件に該当する。
党中央は、私に関するこの種の所作も掌握していた。私が査問に入る前に、すでに他の査問会場で祥らかになっていたのだ。しかし、私は追及されるまで「分派会議」の認識を持っていなかった。それどころか、半年あまりを振り返っても、そのような意識は心の片隅にもなかったのである。これは偽りのない事実だ。
私は、分派とはきちんとした政綱を持ち、党中央の路線や方針に反対する、組織だった特定グループをさすものと思っていた。この点からすれば「新日和見主義者」には思想的にも、政治的にもほとんど等質性と言うべきものがない。
茨木は「新日和見主義分派」を「星雲」状態と評したという。「新日和見主義分派」の全状況を一望できる立場にあった茨木の特別の感懐であろう。それ故、私には「星雲」であることの認識すらなかったのである。おそらく、他の「新日和見主義者」もそうであろう。
私は自身のことで、三つの「集まり」を供述している。
査問官の問いは極めて単純明快だ。
「君が参加した集まりは何の会議か、民青の会議か」
「・・・・・・」
「党の会議か」
「そうではありません」
「それでは何の会議か」
「そういうものではありません」
「・・・・・・」
査問する側は、私が規律違反の「分派主義者」であることを前提に追及する。「集まり」が正規の会議でないとすれば「無届」の非合法「集会」になる。非合法「集会」は組織原則に反する。従って、組織原則に反する「集会」は「分派会議」となる。
「党員権の制限」を受けた被査問者には尋問に答えることしか許されない。下手に弁明すれば諏訪がまた目を剥く。私は一切釈明しなかった。その方が査問に対して誠実であり、共産党員のとるべき道であると思ったからである。
私に関する非合法「集会」で「分派会議」と認定されたものは多分三つである。多分というのは厳格に組織原則を適用した場合、あれこれの連絡や打合せを含め、数え切れないからである。連絡や打合せは全て「無届」を旨としていた。
私は「分派会議」に加津田、登川の結婚する時期を挟んで前に二回、後に一回参加している。
上山田で
最初の上山田の場合はこうである。
田村と平井は民青中央委員時代の親しい同僚であり、同じ東海・北信越地協のなかで、ともに苦労をしてきた仲間である。私は彼らと生涯を通じて友情を温めあうことを願っていた。三人は間近に迫った第十二回大会で民青の「卒業」を迎える。しかも、田村は大会を待たずに間もなく、民医連関係の病院の事務長職に就くことになっていた。
人生の一つの区切りを迎えていた私たちには、「卒業」前に何処かで一日ゆっくりと語りあうことも約束していた。
一方、加津田、登川の結婚式は71年12月11日と決まった。そして、二人の縁のきっかけを作った責任上、私が仲人役になったのである。形式的なこととはいえ、一般社会から見れば大切な役回りである。加津田の親族からも懇切な依頼を受けている。ここは精一杯勤めなければならない。
私は登川側の世話役である宗と、詰めた話を急がなければならないと考えていた。
ちょうどそんな時、宗から中央常任委員会の会議が軽井沢の「青年の家」であることを知らされ、打合せの結果、それが終わってから結婚式の段取りを相談することになったのである。おりよく、田村や平井とも何処かでゆっくりと合おうと約束していた。ところも平井の地元長野であり、良い機会と思ったのである。二人を誘ったのは言うまでもない。
上山田に集まることになった理由はこんなことからである。因みに、上山田は長野と軽井沢の中間である。軽井沢からも近くだし、田村にしてみてもそんなに遠くない。
軽井沢の「青年の家」は全書記長土屋の実家である。母屋を改造し、民青の中央幹部学校や諸会議に良く使われている。私も中央委員会などで何度か行っている。また、宿泊施設としても利用でき、個人としても時期の遅れた新婚旅行であったが、ここを利用している。
私たちは上山田で楽しい一日を過ごした。
会議を除けば、専従者が組織の「公務」以外で旅行することなどほとんどない。私も約10年間の専従生活で、同僚と語らうのを目的に旅館に泊まるのは初めてである。
確かに、民青再建以来の闘いは辛くて、困難を伴うものであった。しかし、民青における自分の任務からして、やるべきことはやった。もうじき、晴れて「卒業」を迎える。私は今までの人生で味わったことのない、言い知れぬ解放感と爽快感に浸っていた。そして、この感慨こそ解放闘争の輝かしい未来を信じる者にしか決して共有できない、特別の思いであることに何の疑いも持たなかった。
私はその時、「快楽」の絶頂にいたのかも知れない。
しかし、それは自分で処することのできない流れのなかの、ほんの束の間にすぎなかった。私の人生にはステッキの柄のごとく、確かな角度をもってターニング・ポイントが用意されていたのだ。人はそれを運命と言う。別の人は階級闘争のエア・ポケットとも言う。どちらでも良い。結果は同じである。
「新日和見主義分派」に関して、宗との出会いを第一段階とすれば上山田の「集まり」は第二段階である。私にとって上山田とはそういうところである。
軽井沢の中央常任委員会の会議が、重要な会議であることは宗から事前に聞いていた。しかし、中央常任委員会は大会や中央委員会を除けば、最高レベルの機関である。ここで開かれる会議はいつも重要のはずである。
私の気分のなかに、宗が来れば方針上のことで新しい何かを聞けるかも知れないくらいのことはあった。しかし、「分派」の意識など毛等ないのだから、そこによこしまの考えは何もない。田村、平井はなおさらのことだ。「集まり」の目的は民青「卒業」記念の「就学」旅行に似ている。三人は友人として、生涯の契りを深めていく場になればこのうえない。それに個人的には加津田、登川の吉日の詰めを宗と行なうだけだ。民青時代に、もうこんな機会はないだろう。私はそんなふうに考えていた。
その後、民青第十二大会は半年あまりも延期されるのであるが、民青同盟員として、三人だけで合うことは上山田以降ついぞなかったのである。
宗は私たちが先着していた宿に川上と村上を連れてきた。宗に私と川上を「引合わせ」ようとする意図があったとしても別に意外でもなければ、余分な人物が来たとも思わなかった。なぜなら、上山田の「集まり」を「分派会議」とする認識などサラサラなかったからである。この認識は査問官に「それならどういう性格の会議か」と問い詰められるまで続く。
私たち三人は、軽井沢で開かれた会議が中央常任委員会でなく、中央グループの会議であったことを知る。当然そこで何が論議されたかも、話題になる。酒の勢いも手伝う。私たちも「卒業」気分である。車座になって、嬉しかったことや辛かったこと、方針上のことや将来の身の振り方など、何の順序もなくワイワイ、ガヤガヤ意見を交わすのだ。
大体において、どこの社会においても親しい者同士が酒を酌み交わすとき、「大言壮語」とともに愚痴めいた不満も伴う。上山田の「集まり」もそうした類型に属するものであった。
宋の話すところによれば、軽井沢の会議では中央グループの責任者を選出したという。改選期なのか、特別の事情でそうなったかは知らない。また投票で決めたのか、挙手採決で決めたのかも聞いていない。案外、選出方法など、大して関心なかったのかも知れない。しかし「八対七」か、それに近い数字で吉村を選出したということだけを覚えている。(注、新日和見主義批判の急先鋒、民青中央常任委員、大阪府委員長後に公安のスパイとして除名の北島を含めても過半数ギリギリ、注は風来坊)
この話を聞いて私の脳裏をかすめたのは、吉村がグループの信頼を受けていないなという意外性のほかに、むしろ、ずいぶん苦労しているなという同情心の方が強かったように思う。なぜなら、その時私も民青県グループの責任者であったからである。
半数近い者が自分を支持していないとすれば、とてもじゃないが正常な組織運営などできやしない。私は明らかに吉村をオーバーラップして見つめていた。
しかし、この話は私にとってそれ以上でも以下でもなかった。言うなれば、関心の対象にならなかったのである。その証拠に、このことを誰にも話していないのである。小御門や松村、前川、その他の同志の「供述書」にも現れてこない。もし誰かに伝播していれば、その者の「供述書」必ず出てくるはずである。党中央が事実かどうかの「ウラ」とりを「供述書」と「供述書」の突き合せで克明にやっていたのだ。
一方、私は宗から聞いた、先の三つの「うわさ」は何人かに話している。話のネタとは言え、それなりの関心をもって喋ったのだと思う。だから、この「うわさ」は他の同志の「供述書」に出てくるのだ。
だが、「8対7」の中央グループ責任者選出の一件は全く出てこなかったのである。上山田で同席した田村、平井とも、この件を振り返る会話をただの一度もしていない。私たちの記憶のなかに完全に埋没していたのである。おそらく、田村も平井もそうだったに違いない。
換言すれば「卒業」を間近に控えた私たちの楽しい上山田の「集い」から見るとき、その話が全体のやりとりのなかで重きを置かなかった所為とも言える。
しかし、「新日和見主義分派」の摘発に入った段階では、そうは問屋がおろさなかった。党中央はこの「集まり」を極めて重視する。
何と言っても民青中央グループの責任者を選出する会議の直後に、そのすぐ近くでわけの判らぬ「集まり」が持たれていたのだ。しかも、そこでは票数まで筒抜けになっている。只事でないと思うのも無理からぬことである。
査問官は「その「集まり」はどういう会議か」と尋く。用意している結論は決まっている。組織の「会議」でも、召集された「会議」でもない。つまり、それは「謀」を企む「分派会議」だ。
民青中央グループが団結していて、「新日和見主義」事件でも起きなければ、たとえ、このての「集まり」が「発覚」されても何ら問題になることはなかっただろう。なぜなら、もともとこの「集まり」は正規の「会議」でもなければ、組織を陥れようとする分派の「会議」でもなかったからである。
世間ではこの種の「集まり」を単に「慰労会」とか、「懇親会」とか、あるいは「コンパ」などと言う。
だが、党中央はこれこそ党と民青に隠れて組織の指導権を握ろうとする、悪質で憎むべき「分派集団」の「密事」と見る。
隆山の家で
二つ目と三つ目の「分派会議」はいずれも隆山の家で行なわれた。加津田と登川等の結婚を挟んだ71年11月と72年2月のことである。
上山田で結婚式の段取りなどを相談した結果、私が仲人をやる関係上、実行委員長はバランスをとって民青中央側に担当してもらうことになった。そして、二人の希望もあり、常任委員以外の中央委員で構成する党支部の責任者である、隆山が実行委員長になったのである。むろん、登川の党籍はここにある。
実行委員会を発足させるに当たり、最初のアクションとして、ここに加津田側の世話役であり、仲人でもある私、登川側の世話役宗、それに実行委員長隆山による鳩首「会談」が必要になった。私に関する第二回目の「分派会議」はこうして「用意」されるのである。
隆山宅でのそもそもの「集まり」の趣旨はと言えば、これが最初の動機であり、偽らざる真相だ。
事実、ここでの相談に基づいて、結婚式当日までに、会場となる静岡で二回ほど実行委員会が開かれている。隆山や吉川等、中央からも何人かが駆けつけてくれている。
隆山の家での「集まり」は三人のほか、吉川、川上も参加した。彼らも実行委員もしくは加津田、登川の結婚を心配している面々である。私にしてみれば、大勢なら話も弾むし、準備するうえで好都合である。
「集まり」は手製の「鍋」をつつきながら、例によってワイワイ、ガヤガヤのダベリングだ。活動や闘い、年齢引き下げ問題など話は脈絡もなく延々と続く。遠慮のいらぬ、楽しい、楽しいコンパと言うべきか。
民青幹部とはいえ、私たちも青年である。仲間うち同士の肩の凝らない「交流」も「明日」への活力として必要だ。一般の同盟員たちは私たちより比較にならぬほど上手にそれを活動のなかに取り入れている。こうしたものが欠けると活動の巾や人間臭さがなくなり、精神主義的なマンネリズムに陥る。酒の入った適度な「付き合い」も、また必要である。
諏訪の尋問が開始された。
「川上が何か言っているはずだ。思い出してみよ」
「・・・・・」
「君が知らないはずはない」
「年齢引き下げ問題とか、闘いが弱いなどということですか」
「そうではない」
「・・・・・」
川上が何か特別のことを言ったのだ。
私はこの日のことを必死になって思い返してみる。しかし、諏訪が期待するような答えを見つけられない。例によって、諏訪は返答できない私を仏頂面で、疑わしそうに見ている。「事」が重大だから、隠していると思っているのだ。
彼がどう思うか勝手であるが、私は査問に対して、すでに真っ白な態度で応じている。査問に誠実に応えることが今の瞬間における共産党員のとるべき道と心に決めているのだ。往生際が悪いと思われたくない。
しかし、思い出せないことや知らないことは言えないのである。
こらえ切れなくなった諏訪が遂に喋りだした。
彼によれば、川上が「今の民青中央委員中、年齢引き下げ問題で○○%、党内民主主義問題で○○%、路線問題で○○%が意見を持っている」と言ったというのである。
諏訪が確認を求めて厳しく追及してくるのだから、間違いなく言ったのだろう。きっと、誰かの「供述書」に出てきたのだ。しかし、私はさっぱり覚えがない。多分、酔っていて頭に残らなかったのか、その時トイレにでも立ったのか、何れかである。
諏訪は川上の発言内容を「新日和見主義分派」の政治傾向を示す、重要な証拠と見ている。そして、今度は私がそれを誰に喋ったかを明らかにし、「分派」の組織的、政治的実態を芋づっていくのだ。
幸か不幸かはともかく、私は川上の喋った「罪状」を広げ回るほど「優秀」でなく、少しばかりのアルコールのためか、脳の片隅にも残っていなかった。
なお、諏訪は川上に対する不信を高めることを目的にしたのであろうか、次のことも私に告げている。
この日早朝、私は皆が寝ている間に隆山の家を辞している。諏訪によれば、川上は私が帰ってから、私が「須山のスパイではないか」と言ったという。諏訪がそう言うのだから、多分言ったのだろう。
しかし、そうであるならば「新日和見主義分派」はますます「分派」としての等質性がないことの証になる。諏訪がそのことに気付かないはずはない。それとも諏訪は、査問の過程で「人脈」の多少異なるグループの存在を知り、それらの間で相互に不信感を高め合わせ、たがいを暴露させるようにしむけたのだろうか。
私に「分派」の認識はサラサラない。川上の言うとおり、少しばかり事情の判る者であれば、私と須山が仲が良く「ウマ」が合っていることくらい皆知っている。別に驚くことでもない。
つまり、私は北島(注・新日和見主義批判の急先鋒、当時民青中央常任委員、民青大阪府委員長、この「活躍?」を買われて共産党本部勤務員に抜擢、後に公安のスパイとして除名 注は風来坊)等を除けば誰とも親しくしていたのである。
第三回目の「分派会議」も隆山の家でやっている。72年2月のことである。加津田、登川の結婚式も滞りなく終了し、すでに加津田も静岡を去っていた。私は彼女に対する責任を果たし、気分も充実していた。自分で言うのは甚だおこがましいが、重責を果たしたの思いは中央の諸同志たちが抱くものより遥かに強いものであった。
結婚式や年末特有の多忙な活動、それに新年の諸行事も一段落したところで私は結婚式の裏方を担ったメンバーで「ご苦労さん会」をやろうと提案した。
たしか、メンバーも前回とほぼ同じだったが、残念ながら登川は急の公務か何かで、この席にはいなかったように思う。ただ、隆山の連れ合いがいなかったことだけを、なぜかはっきり覚えている。
この「集まり」で話された内容については前二回と違って、査問官から特定のことで追及されていない。だから、私たちが語り合った中身の印象は薄い。しかし、年齢引き下げ問題や将来の身の振り方、闘いや拡大のことをこもごも語り合っている。そして、前回にも増して楽しい「集まり」であった。
私は加津田、登川が晴れて夫婦になったことで、この間の苦労も吹っ飛び、人間的にも心温まる「集まり」を開くことができたと思っていた。
「経験交流」は「新日和見主義者」の専売特許ではない
査問官が一貫して関心をもって追及したことは、三つの「分派会議」と認定された「集まり」や、その他のやりとりのなかで「新日和見主義者」が何を話していたかということである。しかし、私にしても、また多分相手方にしても「分派」の意識は何もない。だから、それらの会話は全く屈託のないものである。別に誰かに隠れてヒソヒソ耳を寄せあうわけではない。おおっぴらの話だ。
中央委員会や県委員長会議の宿舎でも、あるいは個人間の電話のやりとりでもそうである。そこに「新日和見主義者」とそうでない人との分け隔てはない。
私たちの関心の全てはどうすれば方針が貫徹できるか、また、どのようにすれば活動を前進させることができるかにある。個人としての能力は限られているし、経験も浅い。他ではどのようにやっているのか、あそこの県で前進している理由は何なのか、ということになる。
専従者であるから、そんなことを朝から晩まで考えている。
従って、三つの「分派会議」や「新日和見主義者」の「会話」は、どうしたら活動を前進させることができるかの「経験交流」のカテゴリーに入ると言っても良い。中部地協の同志や特に田村、平井との話し合いはその典型と言える。
私たちの「経験交流」はいろいろなことに及ぶ。大衆闘争や選挙闘争、拡大の独自追及や教育の重要性、民青同盟員の若返りや年齢引き下げ問題、幹部配置や党による幹部引き抜き問題等々。
直面する課題から何とかしなければならない困難や悩みを含めて、およそ同盟活動に随伴するものは全て話される。 確かに、会議以外のところでこうした話し合いをすることは組織上問題だと指摘するむきも判らなくはない。しかし、民青の中央委員や県委員長だからといって、さしたる経験があるわけではない。古い県委員長ですら、任務について五、六年である。大半はもっと少ない。全国大会にでもなれば県委員長の半数は間違いなく替わる。
県委員長の同志たちは真面目で党派性が高く、組織に忠実であるが、経験が浅いのでいつもこれで良いのだろうかと不安や悩みを持っている。だから「経験交流」は県委員長ににとって、自己の活動態度や活動方法に重大に示唆を与え、県委員長を幹部として成長させていく場にもなる。
私はこうした意味における「経験」交流は、組織活動の前進のためばかりでなく、大衆運動の実践家としての力量を高め、人間的成長を図っていくうえでも効果的な方法であると思っている。そしてこうしたやり方のなかにも幹部を養成していく、青年同盟独特の教育機能があると思っている。
宿舎などで行なわれる「経験交流」には、会議で報告や発言を聞くだけでは得られない率直さがある。だから屈託のない「経験交流」になるのだ。
中央委員や県委員長の同志たちは、組織に責任を負う立場から、自己の悩みや不安を解決するために、積極的に経験を「交流」してきたと言える。
三つの「分派会議」や「経験交流」は「新日和見主義者」の専売特許ではない。「新日和見主義者」同士もやっているし、「新日和見主義者」とそうでない者との間でもやっている。それどころか「新日和見主義者」でない者同士も大いにやっているのだ!
「分派会議」や「経験交流」では各種のことが話される。そのなかに「闘いが弱い」とか「活動内容が選挙だけになっている」とか「闘いと拡大との関係」などがある。
私は、査問を通じて、党中央がこの種の「会話」を極めて重視していることを知った。そのため、査問官からこの辺りのことをずいぶん「熱心」に尋かれている。
想像するに、党中央はこの種の「会話」が党や民青の活動を、拡大や選挙だけに偏重させていると中傷する「手段」に用いていたと捉えているようだ。
もっと言えば、三つの「うわさ」のなかにもあったように、「新日和見主義者」が第十一回党大会で決定された「人民的議会主義」に、左の「反議会主義」の立場から、党の路線全般に悪質な攻撃を加えていると判断していたようなのである。
この種の問題について、「新日和見主義分派」のなかで、どの程度「理論」的な「論議」をしていたのかは知らない。しかし、私の知るかぎり、三つの「分派会議」で交わされた「話」の中味からみて、それほどの「理論」性もなければ、疑われるほどの「系統」性もなかったと思っている。
しかも、これらに関する「会話」は何も「新日和見主義者」だけに特有な者でなく、民青中央委員会のなかでは誰もが関心を持ち、たえず「意見交換」の対象になっていた事柄である。
非常に長い引用になってしまったが、こんなものがが「分派会議」と言えるのだろうか。
ここから考えられることは、最初から結論があって、それをこじつける為に無理矢理色々なことを捜して来たとしか思えない。
少しでも、党中央の見解に異論があったり、疑問があった場合、こんな慰労会や結婚式の準備の会合まで分派呼ばわりされたのでは、自主的な活動や自由な発想などできるわけがない。何も考えない言いなりに動く人間を作るだけである。それでは何も改善されず、失敗を繰り返すだけである。また猜疑心が強くなり、他人の顔色を窺うようになる。このようなことを繰り返していても運動が発展するわけがない。
「新日和見主義「事件」が起こってから消化できない、鉛のような異物を腹の底に感じている。これは民青の活動家がひきずっている共通の意識ではないか。あのとき以来、まわりの人を気にするようになった」(汚名 油井喜夫)
油井氏は不当に処分され、生活の糧さえ失ったにも係わらず、1998年まで26年間も共産党に留まり、地域の共産党後援会や焼津市全体の後援会の事務局長さえしていた。しかし、宮本氏が引退した後、不破氏宛てに新日和見主義事件に対する再検討を求めたのに対し、一切受け入れられなかったため離党した。
「新日和見主義」事件は結果としてかも知れないが、決定にそむく規律違反では無く、異論の排除という点で、民主集中制の原則が変質した最初の事件だったと思っています。
この時、提議された事は今でも闘争を進めて行く上で、常に考えていかなければならない問題だと思いますので、この文章を党員討論欄にも掲載をお願いします。新日和見主義問題に付いては引き続き投稿して行きたいと思います。