筆坂氏は「日本共産党」の「路線論争は過去の話」の中で、それが1961年である。この時以来、日本共産党には路線上の論争・対立はない。と書いている。本当にそうだろうか。全て分派として排除されていったが、論争は存在していた。
まず、筆坂氏は、1967年2月に入党したと書いている。これは、私が民青に加盟した頃である。この時は、毛沢東盲従派との論争の真っ最中だった。一部の民青高校班でさえ、毛沢東盲従派はいた。彼は全くそのような動きに気がつかなっかたのか。
次に1972年5月の新日和見主義事件、筆坂氏は、P15で1972年12月の総選挙で国会秘書が足りなくなったため、私にも「秘書にならないか」という声がかかって引き受けた書き、P145で1970年の第11会大会当時中央委員会勤務員・国会議員秘書であったと書いている。
もし、前者だったとしたら、当時の民青大阪府委員長、民青中央常任委員新日和見主義批判の急先鋒で、その後その「活躍?」が認められ抜擢されて、共産党本部勤務員になり、最終的には公安のスパイとして除名された北島の地元大阪にいたことになる。このとき北島は被査問者に新日和見主義粉砕のステッカーを書かせ、それを民青事務所の周辺に貼らせたという。
後者だったとしたら、査問の行なわれた共産党本部そのものにいたことになる。どちらにしても、この事件を間近に見ていたはずだ。
1978年からの田口・藤井などのネオマル批判
1983年民主主義文学同盟事件
1984年原水禁・平和委員会事件
1990年「日本共産党への手紙」の有田芳生への査問・除籍
石井郁子現副委員長の夫の査問・除名
など理論問題に関する論争・処分には一言も触れられていない。自分に関係ないことは、まるで目に入らないようである。
そして書かれているのは、組織運営と形式に対する批判と自分に対する処分の恨みと不満ばかりである。
結局筆坂氏の自らが共産党指導部と一緒に進めて来た議会主義路線によってセクハラ問題が選挙に不利とみられ、自分自身に撥ね返ってきたというところだろうか。