筆坂問題は最後にしたつもりでしたが、赤根さんの「本題」とされている部分には、うなづけるものがありましたので、今一度意見することにしました。
また一方、赤根さんの意見には、どうしても違和感が残り、私の方からみても「正しく受け止められていない」と思われるところもあります。
私がこれから言うことを要約すると、赤根さんが筆坂氏の行動を考察するのと同じ視点で、被害女性の行動や告発ファックスという行動をもみるべきじゃないかな、となります。また、党の物神化を解消する展望についても考えてみました。
少し長くなりますが、ご勘弁を。
(1)「支配/被支配の関係」とは
まずセクハラ問題に戻りますが、赤根さんは、「女性の側に『被害意識』があったことのみをもって『セクハラ』と断罪して良い」のは、「筆坂氏とこの女性が支配/被支配の関係にあり、女性が筆坂氏に対して直接抗議することが困難な場合」だとしています。
そして、この「支配/被支配の関係」について、私が例をあげたからかもしれませんが、企業内の支配/被支配のイメージで捉えているように思われます。
赤根さんの論理では、「筆坂氏とこの女性が支配/被支配の関係に」ない対等平等な関係の場合、あるいは「女性が筆坂氏に対して直接抗議することが」容易な場合は、「セクハラ」と断罪してはいけない、そんなの「セクハラ」ではないとなります。
そのことを言い表した部分を誤解のないように全部引用します。
他のあらゆる迷惑行為と同じく、相手の行為を不快と感じた時点で相手を諭すなり、拒否や抗議をすればよいことです。相手の言い分もそこで表明されるし、「気がつかなくてごめんなさい」で済むようなこともあるでしょう。意図的にやっているのならそれなりの対応をすればよい。それが健全な人と人との関係、当たり前のコミュニケーションというものです(男女同権はそこにしか成立しません)。そういう関係が成立しないところに立ち現われたのが「セクハラ」なる概念でしょう。巷では、「お前が接近しただけでセクハラだが、キムタクがタッチしてもセクハラではない」などと庶民的な明け透けさを持って「セクハラ」の本質が笑い飛ばされているのです。
さて、このような「巷」の「笑い」は、強者の論理に基づくものではないかと私は思っているのですが、とりあえずは横においておきましょう。
こうして赤根さんは、「支配/被支配の関係」と対等平等な関係を分けているのですが、そんなに竹を割るように分けられるのでしょうか?
あるいは、「限定された事例」と言えばなんだか客観的事実を指すようにも聞こえますが、その「限定」の仕方はどうなのでしょう? というのが私の疑問なのです(最初はとりたてて論じる必要もないと考えたわけですが)。
現代日本の社会関係において、セクハラにおける「支配/被支配の関係」とは、企業の上下関係のようなものでなくとも、つまり本来なら対等平等な場合も含むどのような男女関係においてもありえます。男女カップル(婚姻のあるなしを問わない)の間でも、親戚関係、私的な交友関係においてもそうですし、教育機関や非営利団体などの組織においてもそうです。また組織内部でも、上下の従属関係にとどまらず、同僚の間でさえ、そのような関係がありえます。そうでなければ、たとえばカップルの間のDVなんて問題にならないでしょう。
赤根さんの言う「異常な人間関係」が普遍的にみられる、つまり女性だというだけで「社会的弱者」にされうる、それが現代日本の社会関係ではないでしょうか。
そして赤根さんの言うもう一つの条件「直接抗議することが困難な場合」という判断は誰がするのだろう? という疑問もあります。
その基準には、気が弱い人がその場で抗議できないということも「困難な場合」に含まれるのでしょうか? 赤根さんははっきりとは言われてないのですが、「巷」の「笑い」から推測すると、含まれないのではないか?と思えてきます。
(2)「物神化した党に対する党員心理」は強制された「自己批判」だけに表れるのか?
次に、赤根さんの今回の投稿では、筆坂氏の自己批判の中に「物神化した党に対する党員心理」があること、その筆坂氏の屈折した言動を指導部が最大限に利用して攻撃していることを指摘しています。
そのことはまさにおっしゃるとおりだと思います。
そこで、さらにもう少し踏み込むべきじゃないかと思うのが、筆坂氏の態度に対して「共産党固有の『思想問題』という側面からも見る必要がある」のと同じように、被害を受けた女性にとっても同じような側面を見る必要があるのでは? ということなのです。
筆坂氏と被害女性の関係が、より平等な関係だったとしても、被害女性の側に「物神化した党に対する党員心理」があったなら、彼女は筆坂氏をその「物神化した党」の大幹部として畏敬の念を持ってみていたはずです。それだけをとっても、セクハラの条件として成り立つ「支配/被支配の関係」があったとみなしていいでしょう。
いずれにしても、党指導部は党を去った者に対してこれでもか、これでもかと全国紙を使って好き放題言いまくる卑劣漢たちです。でも、筆坂氏は週刊誌に書いたり、著作を刊行したりして反論できるでしょう。
では、その彼氏が被害女性に対してやってることはどうでしょうか? 著書で「不可解」と言ってることに対してどやって彼女は反論できますか?
私は指導部も筆坂もそういう意味で同罪だと思っています。
(3)「脅迫行為」か「内部告発」か
三つ目は、筆坂氏の処分が変更されるきっかけとなった指導部あてのファックスをどうみるかという点です。
この際指摘しておきたいことは、筆坂氏が「開き直って」いようがいまいが、党内で正規の機関に対する脅迫行為があり、機関がそれに屈する形で決定を覆したという事実は重大なことです。
そうでしょうか?
筆坂氏は「脅迫行為」と言いましたが、私は同じことを「内部からの指導部批判のファックス」と最初の投稿で書きました。立場が違えば見方も変わります。
指導部は最初の決定が誤りだったと考えたからこそ、前の決定を覆したわけです。決定に自信があったのなら、つまり、その決定が中央委員会総会で圧倒的多数の賛同を得られると考えていたのなら、届いたファクシミリが「脅迫」であろうがなかろうが変更する必要ありませんし、変更しなかったでしょう。指導部は届いたファクシミリから、中央委員の中に処分が甘いと考える者が多数存在しそうだとということを感じ取ったのです。彼らはそれくらいの嗅覚は持っているはずです。
それは(A)指導部に不満や意見を述べる正規の民主的手続が党本部内に欠落しているか、(B)形式的には手続が存在しても機能を果たしておらず、(C)そのような非民主的運営のスキを突いて謀略的な工作が現実的な力として党に対する決定的な影響力を持った、という事ですから、党を出た筆坂氏の「開き直り」よりも、こちらの事案の方こそ問題にされてしかるべきです。
党の規約には、「中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる」となっていますが、その場合に、匿名を使ってはいけないとも、ファクシミリではいけないとも書いてません。そのような条件をつけたら、共産党では、内部告発してはいけないということになります。
もちろん、正面切って言えるものなら、それにこしたことはないでしょう。
仮に当時、常幹が「警告」を決定したのに中央委員会総会で違う意見が出されていたら、それだけで日本共産党史上、画期的な事件になっていたことでしょう。まして、中央委員会総会が仕切り直しになったり、常幹の決定が覆るような事態になれば、反指導部の私にとってみれば、拍手喝采ものです。
そういう事態を恐れたのは常幹だけじゃない、ファクシミリで告発した側もそうだったんでしょう。“正々堂々と中央委員会で訴えれば、共産党が党内でもめている印象を与えてしまう、そんなことはあってはならないことだ、それに支持がえられなかったら私の身分が危なくなるかもしれない”……ここでも、私は、「物神化した党に対する党員心理」(それに加えておそらく自己保身も)が働いていたのではないかと思います。
(4)「党の物神化」は党員に特有の心理現象なのか?
このような組織と個人のあり方、つまり党と党員のあり方を仮に共産党の“党文化”と呼んでおきます。
このややこしい、屈折した党文化を観察した第三者は、“ややこしい”“宗教団体といっしょ”“とっとと見切ったらいいのに”といった感想をもつのではないでしょうか。この「さざ波」でも、“筆坂問題などどうでもよい”という声が聞こえます。
しかし党外に目を向けてみると、働き過ぎる労働者たち、仲間の首切りをやすやすと受け入れる労働組合……特に大企業の企業別組合における労働者の行動にみられる現象は、日本共産党の党文化に共通するものがあります。そうした労働者を生み出しているシステムは、斎藤貴男氏が「カルト資本主義」と呼んだものです。
欧米との対比における日本企業の特徴として、年功序列や終身雇用がよくあげられますが、それを支えてきたのが企業内教育システムです。日本の企業は、さまざまな工夫をこらして、労働者の帰属意識、参加意識を醸成し、会社組織への忠誠心を育成していきます。こうして、長期にわたって同一の会社に帰属する労働者は、会社組織を物神化するようになっていくのです。
また、同様のシステムを国家レベルでも作ろうじゃないかというのが、小泉JAPANでしょう。共産党の党文化や「カルト資本主義」が、異端者の徹底した排除と表裏一体の関係にあるように、小泉JAPANは国家への忠誠心を育成する「教育改革」とともに、「共謀罪」など弾圧法をも目論んでいます。
昨今の雇用流動化によって「カルト資本主義」がどのように変わっていくのか興味深いところですが、もしかすると、これまでのシステムが揺らぐことを予想して、小泉JAPANがそれを補うために国家レベルでのシステムづくりを急いでいるのかもしれません。
こうみてくると、日本共産党の改革とは、日本社会の改革にも通じるものがあります。
また、雇用の流動化が「カルト資本主義」の変容をもたらすとすれば、日本共産党の改革にも党員の流動化が有効だといえるかもしれません。党員・非党員の垣根を低くする、たとえば、党員を有期間の登録制とし永年表彰を廃止する。一年ごとに党員登録の更新を義務付け、2006年は党員登録したが、2007年は指導部を信任しないから更新しない、2008年は指導部の方針が変わったので再び登録する――といったあり方が普通になれば、「党の物神化」は生じる余地が狭くなるのではないでしょうか。
党指導部が自ら進んでそのような組織改革を行なうことはないでしょうが、世代交代が進めば、そういう方向に組織が変わっていくのではないかと、半ば希望的観測ですが、思っています。