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5/21付さつきさんへの返信など

2006/06/05 樹々の緑 50代 会社員

 標記さつきさんの投稿に接して、約1年4か月ぶりに投稿します。この間、ROMさえもほとんどしていませんでしたが、たまたま先日参照したら、表題に私への呼びかけがあったので、投稿することにしました。

 さつきさん、本当にお久しぶりです。

> 自分が時間を割いてなすべきことは他にあるのではないか

 この思いは、以前に熱心に投稿していながら、ある時以降、投稿を控えるようになった私が懐いた思いでもありました。もちろん、私の場合、さつきさんのように党員として地道に活動していた友人の死が契機となったわけではありません。
 いくつかありますが、大きくいって個人的環境に関する事情が厳しくなったことと、もう一つ、ここに熱心に投稿して原稿を書いているうちに、以前の自分が本当に大事にしていた気持ちが再び甦ってきて、投稿に自分の労力を割くことがもったいなくなってきたことがあります(現実の活動に取り組むべきだと考えたのです。もっとも、他のサイトには結構投稿していました。その点については後述します)。その「気持ち」は、例えば、「簡単なことですが~2/13とおりすがりNさんへ」と題する昨2005年2月17日付私の投稿の中で紹介していた、知人が学習指導をしていた小学校3年生のこどもに対する気持ちに似ていました。

 それとさらには、過去へのこだわりさんに対して「新日和見主義」世代の(例えば川上徹さんの)主張をどう評価するかという問題への返答を用意している途中に、自分の見解ははっきりしているのに、その根拠を詳しく解明しようとしたら、戦後政治史と日本共産党の61年綱領の確定の経過を研究しなければならなくなり、ちょっと手に負えなくなってしまったということもありました。ですから、過去へのこだわりさんには、申し訳ないことをしたと思っています。

 「はっきりしている」といった「私の見解」とは、多分、原仙作さんが現代日本社会の民主政治に対して持っている見地に繋がっているものがあると思うのですが、日本共産党が、1961年の第8回党大会で明確に打ち出した「選挙による議会の多数議席獲得を通じた新しい民主主義革命」とそれを発展させた第11回党大会の「人民的議会主義」の路線自体は、日本社会を根本的に変革していく正当な基本路線である、ということです。その具体的な担い手である(あった)不破哲三氏の見解が、どんなに科学的社会主義の基本的見地から外れていたとしても、です。

 ここからは、過去へのこだわりさんに対する簡単な弁解と返答にちょっと道草になるのですが、選挙を通じて国民の自己認識を連続的な政治認識へと成長させ、国民自身の自己経験として、民主主義を実質化していく粘り強い政治過程を経ないでは、高度に発達した資本主義体制下にあり、かつアメリカの半占領従属状態下にある日本社会で、革命を実現できないと思うのです。
 もちろん、川上徹さんも過去へのこだわりさんも、この命題自体に反対しているわけではありません。ところが、川上さんが「60年安保闘争のような大衆闘争」というとき、それがなぜ敗北の結果に終ったのかという根本問題に対する認識が曖昧だと、私は感じるのです。
 (この点に関しては、私の2005年2月11日付過去へのこだわりさん・ロム3さんへの投稿も参照していただければ幸いです。)

 「国会外の大衆闘争の盛り上がりで、国会を包囲し、不当な議決を阻止する」といえば聞こえはいいですが、あれだけの「人民的包囲」をしても、そして「大衆的包囲」によって支配層に深刻な動揺を与えても、他方で、安保条約の改定批准案が「粛々と」議決されてしまいました。それが、現在に至るまでの長い期間、日本(とくに沖縄)を「不沈空母」として、あるいは「食い物にされるお人好しのイワン」として、アメリカが従属支配するレジティマシーを与えてきたのです。渡辺洋三氏らが、「憲法体系と安保法体系という2つの矛盾する法体系の併存」と評価する所以です。自民党政治の下では、日本国憲法を基軸とする法体系は、安保法体系を「円滑に施行する」ための道具装置でしかなかったのです。
 (ちなみに、いまはその「安保法体系」さえアメリカの世界戦略との関係で日本政治の桎梏に転化しており、これが現在の憲法改悪策動に繋がっているわけです。)
 それ(=日本国憲法体系の優先性)を真に国民の手に取り戻すためには、どのような闘いが必要なのか、日本国憲法体制における議会制度を、単に「米日反動勢力の日本人民支配の道具でしかない」と一蹴して事足りるのか、それとも、日本国憲法体制という「権力制限規範」の存在を武器にして、その実質化を図りながら議会の支配勢力へと進出することをめざすのか、60年安保闘争からの教訓からは、このことが非常にクルーシャルな問題として、提起されていたと思います。
 当時の社会党の「総辞職戦術」の敗北主義は明らかですが、国会内に、社会党がお馬鹿な戦術をとろうとも不当な議決を許さないだけの、確固とした議席勢力を持たなかったことが、主体側の痛恨事であったことは間違いありません。

 この、困難な歴史的課題を果たすためには、相当長期に亘る、政治のリアリズムに徹した、国民への働きかけとその意識の変革の促進が非常に重要です。政治闘争はイベントではありません。年中行事のように、4.28、6.23、10.21などの国民大集会を催して気勢を上げているだけでは、到底その課題には応えられないのです。「選挙を重視したため大衆闘争を軽視した」というのが、新日和見主義世代を擁護する人たちの基本的見地だと思われますが、その事実認識自体が間違っているというのが、私の総括です。
 本気で「選挙を重視する」のであれば、この「選挙闘争」が、多数派議席の獲得という日本革命の長期的な不可欠の課題であることを踏まえて、選挙のリアリズムに徹すべきだったのに、「票読み・支持拡大」と「選挙の得票に経験的に連動する機関紙現勢の拡大」に、選挙闘争を事実上矮小化してしまったこと、つまり、「選挙も大衆闘争も効果的に行えなかった」ということこそが事態の本質だ、と私は考えています。

 さつきさん、私が「さざ波通信」への投稿を控えていた理由には、もう一つ、現在の日本共産党を変えるために、どのような行動をとることが適切か、という点への自分の考えが、主としてこの間の政治情勢の劇的深化に伴って変化してきた、ということがあります。この「考え」は、いまでも変わっていません。

 例えば、さつきさんと直接の議論の対象となった、日本人拉致問題と北朝鮮の体制に対する態度の問題にしても、この間、拉致被害者家族の苛立ちは非常に理解できるとしても、支援運動が直接の北朝鮮の政治体制打倒運動に「転化」したといわざるをえない状況になってしまったり、その関係もあるのか、被害者家族がブッシュアメリカ大統領の「圧力による支援」を求めにアメリカまで出向いてみたり、非常に困難な状況が深まったと感じています。
 そして、最近の「赤旗」では、このような事態の「客観報道」が占める割合が、相対的に増してきたと感じています。その背景には、そうでもしておかないと、日本の国民世論から背を向けられかねず、拉致問題が直近の選挙結果への「ブレーキ」の役割を果たしていたという、現日本共産党指導部の「リアルな認識の深化」が横たわっているでしょう。

 しかし、日本共産党自身が、北朝鮮の現体制に対してどのような評価をするのか、何とかの一つ覚えのように「内政干渉だ」と言い続けて済ましてい続けるつもりか、定かではありません。国際的な人権の保障こそが問題の所在であること、その見地からいえば、イラク侵略等々、人権侵害の限りを尽くしているアメリカの為政者に、その解決への協力を求めることが、どんなに事態を複雑にするのか。被害者家族らは「拉致問題はあくまで日朝二国間の問題だ」といっています。それはたぶん、米ロ中韓日を含む6か国協議の「取引材料」として拉致問題が使われることを警戒しているのでしょう。が、そうならば、その「解決」に当事国以外のアメリカの「圧力による支援」を求めることが、どのような見地から正当化されうるのか、その点についての解明は、日本共産党の態度からは、まったく窺えません。そして、日本国民は馬鹿ではありませんから、こうした「背後にある基本的立場」を隠したままで、表向き聞こえのよい「報道」だけをしていても、おいそれと「選挙のブレーキ」を解除してくれるものでもありません。

 こうした点を見ても、日本共産党の「政治のリアリズム」に対する認識不足が、いまだに露呈しているように感じています。

 相変らず不破哲三氏は、中国社会科学院で大勢の中国研究者・理論活動家を相手に、新綱領「4つの世界論」を披瀝し、「中国の今後の政治が、資本主義体制と社会主義をめざす勢力との何れが、21世紀の人類的課題である地球環境問題に効果的な解決を与えうるかを明らかにする」とハッパをかけています(「赤旗」5月30日付4~5面)。それなら、中国がその体制的優位性を発揮する条件を、踏み込んで解明・指摘すべきでしょう。折しも、山峡ダムの基本部分の完成が報じられました。これが、地球環境悪化への「多大の貢献」であるとは、皮肉な話です。
 最近、原剛編著『中国は持続可能な社会か -農業と環境問題から検証する-』(同友館2005年12月刊)と、三島憲一著『現代ドイツ -統一後の知的軌跡-』(岩波新書994 2006年2月刊)とを、交互に読み始めています。その何れもが、底辺の現場にいる人々の声を効果的に反映するシステムの構築や、これを支持する者の自由な発言と組織を保障しないと、思わぬ方向へと政治が流れることを暗示しています。中国がその「体制的優位性」を実証するためにも、人民の底辺に至るまでの民主主義の保障・言論結社の自由の保障こそ必須であると、不破氏は公然と指摘すべきでした。わざわざ中国まで出かけて行って研究者や理論活動家を相手に説教を垂れる機会があったのですから…。

 何れにせよ、いまの情勢は、こうした諸々の問題の打開について、「プディングを食いながら」(cf:「プディングの味は、食ってみればわかる」というマルクスorエンゲルスの言葉)やって行くしかないと思っています。そこで、内容は明らかにできませんが、私も微力ながら、あれこれの活動を(一市民として)行うように努めております。

 また、自分自身でどうしてもわからないことが出てきたら、この場にアクセスするかも知れません。
 しかし、人文学徒さんたちには申し訳ありませんが、現党員の少数派の人々が、この場を借りて意見の結集を図り、現党中央にぶつけても、党中央を変革することはできないと考えています。現下の厳しい情勢に対して、一緒にたたかうことの中で、問題の所在を指摘しつつそのおかしさを改めるよう求めること、この方法しかないと思っています。教条的な見解は、依然として大勢を占めていますが、耳を傾ける姿勢は出てきているように思います。彼らも切羽詰まっているのだと思います。

 なお、最後っ屁のようで申し訳ありませんが、本当に時々、このサイトを参照しているときに、北欧型の社会を、日本社会の発展方向のモデルにすることと、現に南米ベネズエラ・ボリビアで発展している運動の方向をモデルにすることとが、何か対立的に論じられているように感じられる議論があったように記憶しています。
 しかし私は、日本は、生産力と民衆の基本的力量においては北欧社会に近似するとは思いますが、運動の発展方向としては、おそらく南米型の運動に近くなると考えています。それは、日本資本主義の後発性と、戦後自民党政治が作り出した矛盾の「質」が、よくは知りませんが北欧社会の矛盾のそれとは、相当違っていると感じるからです。