>対話は成立してませんが?
私もそう思います。おそらく共通の言葉がみつからないからですね。それで私は対話をうちきりにしたつもりでいました。
>>事実は一つといわれますが、何が事実で、どうみるかという見方はいろいろあると思います。共通の言葉といわれても、日本語以外には思いあたりませんが、レーニン語とか、マルクス語とか、不破語とかは、苦手なのでご勘弁願います。
>おちょくってますか? 「共通の言葉」というのは、文字通りの意味です。私とロム3さんとでは、同じ事柄を別の言葉で表現したり、同じ言葉が別の意味になってたりしてるので、言葉を共通化しないと対話になりませんよ、ってことです。
おそらくその言葉の意味が違うのは、マルクス語とか、レーニン語ないしは、新社会党語のせいだと思います。
一般庶民の話す日本語ではないと思います。
>私は日本語を使っているつもりです。ロム3さんの言う「レーニン語」「マルクス語」「不破語」ですが、「苦手」というからには、そのような言葉が実在するわけですね? 聞いたことないので、ぜひ教えていただきたいと思います。
難解な資本論を読めば、マルクス語は、一目瞭然ではないでしょうか。不破さんは、最近やさしい言葉に変えましたが、以前はむつかしい言葉で物を言っていました。
仏教には、仏語があり、それぞれのジャンルにそれぞれの言葉があります。言葉が違うということは、アイデンティティの違いがあると思います。
私は、過去の党員で、現在は単なる支持者にすぎません。それもどこまでも日本共産党についてゆくという素直な支持者ではなく、他に自分の心に響く候補者がいたら、いつ鞍替えするかもしれない不安定な支持者にかわりつつあります。
しかし、大衆組織に属し、友達の大半は、党員だったり、熱心な支持者だったりするので、出来うれば今までのアイデンティティを変更したくないという思いがあります。
澄空さんは、党員であり、しかも左(その定義はさだかではありませんが)から、党を変えようとしている方で、とても私とは、アイデンティティが同じとはおもえません。それゆえ共通の言葉がみつからないのでしょう。
>>また、現実の歩みとして、この20年くらいに限定すると、党が「正常化」するにしたがって小さくなっています。 これはどう解釈されるのでしょう?(私の解釈はのちに触れますが)このままさらに「正常化」すると歯車が逆回転するのでしょうか?
ここで言われる正常化は、右傾化に対する皮肉な意味での正常化でしょうか?日本共産党は、徹底した民主主義を追求する党として、私は評価し、期待していました。正常化とは、まさに徹底した民主主義を追求することにあると思いますし、そのことによって党が小さくなるとは考えられませんが・・・
>皮肉だなんてとんでもない! 指導部の方向性を私は「右傾化」と呼び、ロム3さんは「正常化」と呼んだわけです。このように「どうみるかという見方はいろいろある」でしょうが「事実は一つ」です。あなたがもっと正常化すれば党が大きくなると言われたので、その根拠を問うたまでのことです。「正常化」は私の言葉ではないので、カッコでくくっています。
最近企業のM&Aがはなやかですが、政党もM&Aすべきというのが私の持論です。右も左もガラガラポンして、編成をしなおせば風通しがよくなるのではと思います。
人為的にそれをやれとは言っていませんが、そういう方向にゆかざるを得ない状況が生まれてくると思います。
小泉氏は、自民党を見捨てているように見受けられます。野党もそれぞれの党の桎梏に苦しんでいるように思います。日本共産党は、一番矛盾の少ない政党だと思います。矛盾が少ないから発展のエネルギーも少ないのだと思います。レーニン主義を捨てることが右傾化ならば、右傾化は、正常化だと思います。正常化すれば、他党と手をつなぐ条件がうまれます。その手をつなぐ相手は、新社会党ではないと思います。新社会党と手をつなぐ方向に行けば庶民の期待を裏切るので、党は消滅すると思います。あなたと私では、正常化の方向が180度ちがうので、共通の言葉が見つからないのだと思います。
>しかし、ここであなたは「正常化とは、まさに徹底した民主主義を追求することにある」と「正常化」を前回の投稿とは違った意味ににして答えておられます。
このように言葉の意味が変わると私の質問に対する答えにはならないんですが。
右派の意見は党内では常に押し込まれています。絶対に取り上げてはもらえない意見です。ですから、右派は、党の外へ出ざるを得ませんでした。大衆組織ならば何とかとどまることが出来ています。私にとっての党の民主化は、端的には、右派の意見を聞くということです。現在の綱領ではそれは無理なことです。
>>マルクス主義だろうと、リベラルだろうとどちらでもいいです。歴史を逆転させない。正しく進める側に立ちたいと思います。
>どちらでもよいなら、「真のマルクス主義」などと言わぬことです。
>「共産党」という名前には、共産主義者の政党という意味があります。党指導部の考えがどう変わろうとも、この名前がある限り、世間では共産主義者の党と受け取られます。たとえ名前を変えても、「元共産党」という言葉がついてまわります。
私は心情的にはこの党を見限っていますが、この事情がある限り、また人的なつながりがある限り、また除籍・除名でもされない限りは、党にとどまるつもりでいます。
いずれにせよ共産党からリベラルな党に変わるということは問題外でしょう。自民党や民主党のリベラルな傾向のある派閥に合流すればよいのですから、そういう方向性は解党への道だと思います。
私は、共産党という名前は好きです。全人類の共通の財産である地球を守る党として、活躍してほしいと思います。歴史に試されてすでに失敗が明らかになった、レーニン主義に固執すべきではありません。マルクスにもあやまりがなかったわけではないと思います。
しかし、その哲学たる弁証法的唯物論には、誤りを見つけることは出来ません。史的唯物論を信じる者として、マルクス主義を名乗ってもいいかなと思っている程度です。
決してマルクス信奉者ではありません。マルクスを乗り越えるマルクス主義者でありたいと思います。
>>社民化であっても同様でしょう。社民がいいという人があるなら、新社会党や社民党、あるいは民主党に合流すればよいのです。旧社会党が現在のようなありさまになっているのに、なぜいまさら社民化がよいと考える人がいるのか不思議でなりません。
レーニン主義かどうかが、分かれ道だと思います。日本の社民はレーニンにかぶれているのではないでしょうか、民主党の中でも、田中康夫さんなんかは、弁証法をかかげていて、過去には日本共産党と共闘をした実績があります。党ではなく、個人と共闘すべきだと思います。
筆坂氏も将来日本共産党と共闘できる候補者になってほしいと思います。
党内の不破勢力が弱体化すれば実現可能ではとおもいますが、まずは、「平和共同候補」にでもなって、自力で一回当選することが必要でしょうね。
>とはいえ日本では、共産主義の政党あるいは共産主義者は、社会民主主義の政党を左から支える役割を果たすべきであり、もっともっと新社会党や社民党と協同していくべきであると私は考えています。先の投稿でも述べたとおりです。
そのことと、党そのものが社民化することとは別次元の話ですからね。
現在の党指導部は、右へ進みながら新社会党との共闘を門前払いしてますし、「平和共同候補」の件で国政選挙では政策協定を結ばなければ支持者を納得させられないといってるようですが、過去にその国会議員が首相指名で民主党に投票したこととどう整合性があるのかわかりません。言うことなすこと無茶苦茶すぎです。こんな指導部に「徹底した民主主義を追求」できるというなら、その根拠をぜひお聞かせ願いたいものです。
徹底した民主主義を保障するには、徹底した対話が必要でしょう。現在の党には、それが保障されていないのだから、なにをかいわんやです。私の所属する大衆組織では、かなり保証されています。ほとんど毎回班長と私は、口角泡を飛ばして激論になりますが、口論するのは、二人だけで、他の人は、聞いているだけですが、もし、二人だけだったら、喧嘩別れになりますが、傍聴人がいるので、そうはならずにすんでいます。
喧嘩するほどの中というのか、言いたいことを腹にしまっておくような関係よりは、結果はよくなるのではと考えています。
>最後に、蛇足です。最近投稿されている方には知らない人もいるでしょうが、「左」である「さざ波通信」の編集部は最初から新社会党との共闘を掲げていました。
それに対して、主として党内からとみられる批判がよくみられました。共産党が躍進していた当時のことですが、その当時の雰囲気と現在の「さざ波」の投稿の雰囲気とはずいぶん変わりましたね。
ただ、躍進していたときは共闘に反対し、後退しているときには共闘に賛成するという考えの人が多いとすれば、それはそれで問題だと思っています。それは自らの弱さを、他者の力でカバーしようというものに他ならないし、後退局面で共闘したとしても有効性があまりないからです。なぜ弱くなったのか、なぜ弱いのか、そこをみないことには未来はありません。
投稿者が変わってきているせいではないでしょうか、以前は「さざ波通信」がありましたので、編集者の意図がわかりましたが、現在は「さざなみ通信」が途絶えています。編集部の意見を垣間見ることもできません。
なぜ党の力が後退したかは、それぞれ言い分があるでしょうが、私は新綱領のせいだとおもいます。あれを見てがっかりして、赤旗をとるのをやめました。それまでは、集金もしていたのですが、私が持っていた読者も私が集金に行かないと言う理由でやめた人もいます。
あの綱領を見た時点で不破氏の締め付けの強さがわかりました。
筆坂氏の暴露でそれが想像以上のものであることがわかりました。
なぜ、不破氏にそんなに権力が集中するのか、個人崇拝がなぜおきるのか、それは、レーニン主義の宿命だと思います。アメリカの政党は綱領はないとか聞きました。政策があれば、綱領はいらないそうです。党員のほとんどが綱領に無頓着です。そのことを以前は情けないと思っていましたが、今は反対に評価したい気持ちになっています。