この内容は、虚構を引用するとき重複するが、党員評論
家が党と異なる見解だと党から判断されたとき、どうなるかと
いうことである。この事件の党の処分の仕方は、その後のネオ
マル事件、原水禁事件、民主主義文学同盟事件、有田芳生事件
などにそのまま踏襲されていった。
評論家や学者・研究者、大衆団体の役員、出版社の編集者が
党の発表済の見解の範囲でしか、意見の表明や学術論文の発表
しかできなかったり、役員としての意思表示ができなかったり
、インタビュー相手の選別ができなかったら、そんなものはど
んな存在価値があるのだろうか。
しかも新日和見主義事件で明らかなように、査問では弁明も
釈明も認められていない。
弁明も釈明も認められないで、評論家や学者.研究者、大衆
団体の役員が、常に党がどのように判断するか考えていたら、
まともな評論活動や研究、大衆団体の役員としての活動などで
きるわけがない。
高野孟の場合
各界へのニュース提供組織としての通信社ジャパン・プレス ・サービス(JPS)の名も上がっていた。JPSは1950年代に共同 通信社からレッドパージで追放された敏腕記者たちが中心にな って作った通信社だった。
川端治と高野孟は六日間の査問を受けた。五月のその日、JPS における党員たちの総会が開かれた。そこへ出席した上田耕一 郎は、「査問したい」旨を川端と高野に告げ、二人を連れて党 本部に向かった。略
川端と高野は、当時盛り上がりつつあった沖縄協定反対闘争 の中で、主として学生運動に大きな影響を与えていた。高野は 私の全学連時代からの友人だった。私が全学連といういわば「 オモテ」の舞台で活動していたのに対して、高野は早稲田の共 産党細胞の指導部として運動を支えていた。
卒業後はジャーナリズムの世界に進み、沖縄闘争の中で再び 助け合う関係となったのだ。高野は民青機関紙誌で健筆を振る っていた。川端も各大学自治会や民青班の学習会、講演会でひ っぱりだこだった。高野と川端の二人が関わって書いたパンフ レット「君の沖縄」は、運動の盛り上げていく学習テキストと して、学生活動家たちの中ではベストセラーとなった。略
パンフレットは「四十年前のドイツと現在の日本がソックリ であることの不気味さ」を鮮やかに切り取ってみせたのであっ た。日中国交回復、沖縄返還協定締結によってアジアの「大国 」としての道を歩み始めた、日本の新しい時代の予兆を、一つ の側面から過激に掴みあげたと言っていい。
また、時代認識で重なる部分の多かった高野と私は、全共闘 運動に大衆が魅力を感ずる構造を重視しようと考えていた。生 きる「故郷」を失いモップと化した大衆がナチスのデマゴギー に捉えられていく構造と、全共闘運動の熱狂とが、どこかで地 下水のようにつながっているのではないか。だから、その熱狂 から逃げるのではなく、無視するのでもなく、ましてや「反共 」だからと一括敵視するのでもなく、そこに分け入り、「こち ら側」に大衆を獲得する方法を考えなければいけないのではな いか。
一方党内には、闘争の現場から遠く離れたところから、論文 を書き、正しい説教をすることで足れりとする風潮があった。 われわれはそうしたことの無力を、いささか性急に衝こうとし ていたのである。
いずれにしても、川端、高野らと民青学生班、全学連の活動 家たちとは密接な協力関係にあったから、この二人がアゲられ たことを知っても、大きな驚きはなかった。ただ、私と高野の 間で私的に交わした不用意な発言が、多くの人の査問過程で党 攻撃の「証拠」として挙げられ使われた。関係者の名誉を傷つ けたことを含め、個人的には大変申し訳ないことをしたと思っ ている。(査問 川上徹)
新日和見主義者の中に反動の手先はいなかった。だとすると この「こちら側」は反動の側ではないことは確かだ。川上も高 野も大衆を「こちら側」に獲得する方法をそれぞれの立場で模 索していたにすぎない。これが何で分派闘争と言えるのか。
一廃絶すべき手法
考察したところ、情勢論などで党から批判されたのは川端治 (山川暁夫)や香月徹(高野孟)くらいだろう。他に若干いた としても、ほとんど二人に代表されるといっていい。川端に、 「従属的日米帝国主義同盟論」や「核従属論」もあるが、彼ら は共産党の枠内で議論展開しようとした姿勢がうかがわれる。
平易な言葉で語りかけた「君の沖縄―佐藤・ニクソン協定の ねらい」のような解説本でさえ、歪曲をまじえ、激烈な批判に さらされた。この本は労働者教育協会編で、学習の友社が出版 した本である。若者むけという与件のもとで編集されたと思う が、多数の安保・沖縄資料を駆使し解説したもので、この本で 学習会をやり、沖縄闘争に決起していった青年学生は少なくな かった。「君の沖縄」にたいする批判は共産党影響下の団体や 企業にたいし、党がどのように介入したか、体質問題としても 見逃せないものがある。
党中央のある幹部が「いままでの分派はみな分裂していった 。「新日和見主義分派」だけはなぜ分裂しないのだろう」とい ったという。新日和見主義といわれた人々はもともと「分派」 ではないのだから、いつまでたっても分裂しようがない。この 幹部にはあたり前の理屈がまったくわかっていない。
党員は党の決定に同意できないとき意見を保留し、上級機関 に自己の意見書を提出できる。ただし党の内外に公表すること は禁止される。これが共産党の組織原則である。
ただ問題は、川端や香月が党員の政治評論家だったことだ。 党員評論家が評論活動で党と異なる見解をもったとき、あるい は党からそう判断されたとき、どうなるのか。これは学術や文 芸・文化部門の党員も同じである。
評論家は評論活動を行なうことを業とする。党員評論家の深 刻なところは業というところにあるのかもしれない。二つ考え られる。本人が自覚して党と異なる評論活動をする場合と、党 の見解の枠内にあると思って評論活動をしていたが、後になっ て、それは違うと判断された場合とである。前者の場合、先に 自ら離党するか、党から除名されることになる。しかし問題は 後者の場合である。
党からクレームがつくことをおそれたら、自由な評論活動は できなくなる。この場合、評論活動は党の鋳型からでないスポ ークスマンの役割を演じることができても、主体的な評論活動 は自己抑制することになる。しかも党が業としての評論活動に 分派主義の疑惑をもって対処するとなれば、事態はいっそう深 刻になり、評論活動自体が分派活動になってしまう。新日和見 主義事件は、そういう問題がふくまれていた。
これまで共産党は公開討論をやっていない。党大会前の「赤 旗評論特集版」の意見公表は、公開討論とはいえない。新日和 見主義事件の経験からいっても、自由な公開討論を適宜に行な い、党内民主主義をもっと発揚すべきだろう。情勢論など政治 評論にかかわる問題ではとくにのぞまれる。それは党の唯我独 尊をさける道であり、党員の適度の緊張感と党の活性化に役立 つものと思う。
党中央は新日和見主義批判の文献中に、被批判者の氏名も該 当論文も書名もあきらかにしなかった。だから党員や党の紙・ 誌の読者はだれの、なにが批判されたのか、さっぱりわからな かった。党中央は新日和見主義の背景にある傾向を批判し、氏 名や文献を公表しなかったのは、党の温情ある配慮からだとい う。だが批判の実態は本書や前書「汚名」で述べたとおりだっ た。
名前も出典もふせて傾向を批判するわけだから、対象が際限 なく拡大される。しかも、その裏で被批判者の論理を歪曲・加 工し、それを批判するのだから本質論議から大きくかけ離れる 。そうなれば、それはもはや虚構という次元のものになる。
新日和見主義事件のわかりにくさは、ここにあるのではない か。批判の対象が二人なのか、五人なのか、それとも五〇人な のか、五〇〇人なのか、およそ漠然としていてあいまいだった 。みえない、いるかいないかわからない「人民の敵」を摘発す るかのように、化物のようにみたてて行なう批判の仕方が、人 々には無気味で怖いのだ。
事件がどのようにつくりあげられていったか、それを知る人 は論点を一つの方向に意図的に組み立てた一部の最高幹部にか ぎられるだろう。現行の民主集中制のもとでは、この種の事件 や党内の不可解な事柄は、一部の最高幹部にしかわからない。 その最高幹部の判断が、党の意思となり全党を拘束する。
私は、前書「汚名」で共産党は人権無視の査問体質を廃絶す べきだと述べた。本書では被批判者の名前も論文名も書名もあ きらかにせず、反論も許さない批判の手法は廃絶すべきである 、ということを加える。それらの欠落したものが批判といえる かは、はなはだ疑問である。
ヒステリックで打撃的な言葉を投げつけることができても学 問的な意味では否であろう。批判は相手や文献を特定し、反論 の機会をあたえてこそフェアであり、そうしてこそ真実の究明 に貢献できるのではないだろうか。党中央が被批判者の文献を 公表し、その批判箇所を特定するよう求めたい。(虚構 油井 喜夫)
新日和見主義事件の重大な問題点の一つは、党員評論家の評
論活動を分派活動と規定したことである。党が業としての評論
活動を分派主義の疑惑をもって対処するとなれば、評論活動自
体が分派活動になってしまう。
評論活動、学者の研究、大衆組織の役員の活動を分派活動の
疑惑をもって対処されたのでは、共産党中央が既に決定した範
囲でしか活動できなくなる。これでは、大衆闘争の発展も学術
研究の発展もありえなくなる。
以下その後に発生した問題を若干挙げて見る。
ネオマル事件
1973年以来国際共産主義運動内にユーロコミュニズムが台頭
してきた。こうした機運を受けて国内でも、学者党員たちの間
に、スターリン問題研究、ユーロコミュニズム研究の共同作業
が活発になった。
しかし、その後、これに関わった田口富久治名古屋大学教授
、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、水田洋
名古屋大学教授、加藤哲郎、西山俊一ら批判、処分、出版計画
の途絶をさせた。
1990年「日本共産党への手紙」を編集した有田芳生を査問除籍
1983年 民主主義文学同盟事件
小田実寄稿文に対して、編集後記に中野健二編集長の寄稿謝
辞があったのに対して、中国共産党批判の基本方針から逸脱し
、思想を風化させた。編集長は個人責任をとれ、として更迭を
要求した。
1984年原水協事件
原水協、平和委員会代表が、原水禁、主婦連、生協連などと
の統一協議で決定した「団旗自粛」を党中央がクレームをつけ
、原水協や平和委員会の人事に介入し更迭した。代表幹事吉田
嘉清、草野信男、江口朴朗、小笠原英三郎、古在由重ら追放除
名
このような、評論活動、学問研究、文化活動、大衆運動が、
その活動を分派活動の疑惑で対処されたのでは、運動の発展は
ありえない。このようなことを繰り返せば運動の幅は狭まるだ
けだ。その悪しき出発点として新日和見主義事件として考える
必要があるのではないか。これも党員欄にリンクをお願いしま
す。