小林多喜二はあの軍政下、天皇制警察の支配化の日本で日本で真っ向から日本帝国主義を暴露する「蟹工船」や「党生活者」を書いたのは実にすばらしい勇気だと思うのだが、その才能を思うときもっと長生きしてほしかったし、もっとたくさん作品を書いてほしかったと思うのです。あの時代多くの作家たちは軍部の監視下で小説を書き、従軍作家として戦場の記録を書かされたりしていました。またプロレタリア作家同盟の人たちは逮捕、投獄され転向させられました。その中にあって小林多喜二こそは輝く星のような作家です。
だが弾圧下にあってもっと弾圧をくぐりぬける表現方法はなかっただろうか。魯迅などは決してそのような表現方法を取らないで中国革命を暗示していたし、「兵士シュベイク」の作家ハーシェックはお笑いの中でオーストリアの軍隊をコケにした。
あるいは別な出版方法はなかっただろうか。たとえばソルジェンツインハスターリン主義批判の短編「イワンデニソヴィッチの一日」を回し読みの形で地下出版をしたのでした。
私は抑圧や弾圧が激しくなる時代には屈折した表現やイソップの表現をとることも仕方がないと思うのです。どんなに屈折させても人民は作家が何を言おうとしているかを必ず見抜くものでしょう。小林多喜二は勇気のあるすばらしい作家だが、もったいない気がします。だから複雑な気持で多喜二を考えるのです。もっと巧妙に、そしてもっと粘り強く、私たちは闘ってゆかねばならないと思います。
だが自由に物の書ける今日という時代に、言うべきことは堂々といい、改憲後のおそらくは抑圧がはるかに強まる時代にはそれなりの表現をとりながら作家は国家権力に抵抗してゆかねばならないと思います。