やすし様レス有難うございます。書くことがなくなって しまったので、しばらくおやすみしていました。それに(音重 子様)という方が、私の言いたいことをもっと系統だてて上手 に表現してくださっているので、私の出番はないわけです。
公開質問状については、私は反対の立場です。革新共同候補 なら誰でもいいというわけではなく、党の立場で一人一人振り 分けるべきだと思います。しかし、独自の対立候補は、勝つ見 込みの無いところでは出すべきではないと思います。
今回、長野では、田中康夫さんを支持しないで、対立候補も 出さず自主投票にしているようなので、そういうやりかたなら ば、大いに賛成です。
私は、今は日本共産党の支持者かどうか自分でもよくわから ないので、日本共産党に対して、要求をいう立場でもないので 、公開質問状には参加しません。
昔、北朝鮮に修学旅行に行ったのは、地図で見ると、ほんの
一部分でした。不審船が逃げ込む悪名高い清津に行く予定だっ
たのが、変更になってもっと北の羅津に行きました。外地で生
まれた子供は海を一度も見たことがない児もいるので、海を見
せるのが旅行の第一目標だったのだと思います。小さな家が並
んでいる寂しい町でした。小さな灯台を見学して、小さな海岸
で、白いクラゲと遊びました。それから清津の近くの朱乙とい
う温泉に行きました。歩けど歩けど宿につかずつらい思いをし
ました。
一台の馬車に病児だけが乗せてもらえました。泣き出す児も
いて、先生に負ぶってもらっていました。小学5年の時です。
温泉宿に一泊して帰ってきましたが、多分往復の汽車の中で
一泊づつしたのだと思います。朝鮮のおみやげは、うにの瓶詰
めと、きざみタバコと相場が決まっていて私もそれを買ってき
ました。両方とも父へのみやげです。家父長制のつよい時代だ
ったので、他の家族へは小遣いはもらったけれども何も買って
はきませんでした。それでももめない時代でした。おいしいも
のはまず父が食べる。父の許しがないと子供は何も食べれませ
んでした。大東亜戦争が始まって2年目くらいのときでした。
次の年は、満州のハルピンというロシア人街に行きました。帝
政ロシアのおもかげのある街でとても美しい街でした。
松花江という海のような大河があり、百隻くらいの軍艦が対
ソ戦争のために用意されているということで、そのうちの一隻
の見学をさせてもらいました。軍艦というのは海だけのものだ
と思っていたので、河に軍艦があることが不思議でたまりませ
んでした。
それからだんだん戦場が南方から、日本に近づいてきました
ので、修学旅行どころではなく、トラックにつまれて、軍隊に
勤労奉仕に行くことが多くなりました。軍隊に働きに行くと、
網に入った乾パンを一袋くれるのでとても楽しみでした。民間
には食料がなくても軍関係の人は食料に困ってはいませんでし
た。
まもなくソ連が攻めてきて、一夜にして住みなれた家を捨て
、逃げ周りました。零下30度の冬を暖房も夜具も十分ではなく
、高い食料も買えなくて豆腐売りをして暮らしました。発疹チ
ブスがはやり、朝早く豆腐を売り歩いていると死体捨て馬車と
出会いました。アンペラというとうもろこしの皮で出来たむし
ろ様の敷物の下から並べられた死体の足がにょきにょき出てい
ました。
あの当時常に死は身近にあったのに、戦争以外には、人殺し
の話は聞いたことはありませんでした。今の時代とはモラルが
違っていたのでしょうか。不思議に思っている今日この頃です
。