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一般投稿欄

新日和見主義について(内外の反動勢力の手先はどちらの 側にいたのか)

2006/07/20 風来坊 50代 自営業

 内外の反動勢力の手先は、査問される側にいたのだろう か、それとも査問する側にいたのだろうか。以下油井氏の「遺 しておくこと ある新日和見主義者の回想を引用する。(但し 名前は汚名に合わせる)

 私は72年5月15日の赤旗を手にして愕然とした。九日付けの 幹部会声明「日本共産党創立五十周年記念の歴史的な党躍進大 運動に全党員は立ち上がろう」に思いもよらぬことが書いてあ る。多分登川の連絡が途絶えなければ字句だけの通り読みです ましていたかも知れない。私はかなり神経過敏になっていた。
 声明はいつもの調子と明らかに違う。青年学生運動に焦点を 置き、各種の反党分子への非妥協的闘争を宣言している。略
 「このなかで内外の反動勢力は、わが党の着実な前進をはば むために、デマ、挑発を含む各種の策動に訴えている。また、 国際共産主義運動のなかの一部の干渉者とそれに盲従し、依存 する分子は、特に青年運動、学生運動のなかにわが党への不信 と中傷をうえつけるために、きわめて陰険でこうかつな暗躍を つづけているが、大躍進運動の前進のためには、これらの反動 勢力とその手先、各種の反党分子への非妥協的な闘争をもって こたえなければならない。」略
 「会議はまた、各種の対外盲従分子、トロツキスト、反党分 子などの最近の策動について報告を聞き、検討しました。国際 情勢と闘争の試練のなかで、彼らの反革命性、反人民性はます ます暴露され、みじめな政治的破綻がすすんでいること、しか し、国際共産主義運動における対外干渉主義、「社会植民地主 義」の傾向がなお存在し、それとトロツキストとの無原則的野 合が新しい特徴になっていること、しかもかれらは、党の内部 を撹乱するために労働運動、青年・学生運動などのなかで党へ の中傷と不信をもちこみつつあること、したがって、今日、こ うした策動にたいして、断固とした、また機敏な、思想的・組 織的闘争をおこない、かれらの策動を粉砕することが重要であ ることを会議は確認しました。」(コメント)
 私は声明とコメントを繰り返し読みながら、十中委の党員会 議とその後電話で知らせてくれた登川の話とを結び付けて考え ないわけにはいかなかった。略
 幹部会声明やそのコメントを読んで私が腑に落ちなかったの は国際共産主義運動における対外干渉主義との闘争を新ためて 強調していることである。
 党と民青は反党修正主義者や毛沢東盲従分子、トロツキスト の各潮流と断固たる思想的組織的闘争をおこなってきた。その 点では私自身も人後に落ちない。
 沖縄闘争においてもトロツキスト、反戦青年委員会などの過 激で挑発的な行動を暴露し、運動の正しい発展を擁護してきた 。民青や全学連がトロツキストとの闘争できわめて重要な役割 を果たしてきたことは誰しも等しく認めるところである。
 反党修正主義者や毛沢東盲従分子との闘争は思想的、政治的 、組織的に決定的勝利を勝ち取り、彼らの策動も小範囲で部分 的なものに封じ、事実上一段落している。むろん、現時点での 彼らとの闘争をいささかも軽視するものではない。しかし当時 、党の直面する課題を成し遂げることとの関係で、対外干渉主 義との闘いをこのように強い調子でよびかけることはほとんど なくなっていた。略
 それにしてみても国際共産主義運動の一部の干渉者や盲従依 存分子とは誰を指すのか。不信と中傷とは具体的にどういうこ とを言うのか。すくなくとも、これらのことは民青とは無関係 の筈である。
 五・九幹部会声明は「反動勢力とその手先、各種の反動分子 への非妥協的な闘争」と言っている。これは大変な表現だ。敵 対分子に使う言葉である。民青のなかに反動勢力の手先がいる のか。そんな馬鹿なことはない。この幹部会声明の真の狙いは 何なのか。
 以上と思える表現に私はまたまたわからなくなっていった。

 共産党中央の言う一部の干渉者とは一体誰のことだったのだ ろう。それは北朝鮮だった。査問のその部分を見てみよう。
 突如として怒声がまた飛んできた。
 「朝鮮人参の話を知っているだろう!」
 「ジャパンプレスから何か貰っていないのか!」
 「登川の下宿に行ったことはないのか!」
 身体中憤怒でこり固まった、諏訪のたて続けの尋問が空間を 打ち砕く。諏訪は怒るとき、白眼を一層大きく上に剥く。大変 なこわもてぶりである。その迫力たるやちょっと比類がない。 私が非妥協的対象の「反党分子」であるゆえ、余計満身の力を 込めて迫る。略
 彼の糺問は空を切った。なぜなら私にはさっぱり身に覚えの ないことであるからだ。それどころか諏訪の荒げ声の意味すら 判らなかった。私はキョトンとして査問官の顔を眺めた。
 おそらく諏訪は「反党分子」としての正体をこの尋問で暴き 「しらばくれるのも好い加減にせい」とばかりに真っ向上段か ら「切り捨てる」つもりでいたに違いない。だが、残念ながら 彼の「期待」に応えることができなかった。
 私はおもむろに質問した。
 「朝鮮人参て何ですか?」
 「ジャパンプレスって何ですか?」
 そして「登川の家に行ったことはありません」と答えた。
 諏訪は私の返答に驚きの態度を隠さなかった。よもや私がこ の「犯罪行為」に無関係と思わなかったのだろう。そして、し ばし絶句した。
 事実、私は「朝鮮人参」も「ジャパンプレス」も何も知らな かった。略
 この「嫌疑」で私を追及できなくなった諏訪は、しばらくす ると若干の「解説」をはじめた。振り上げた拳はどこかで下ろ さなければならない。
 諏訪はさも憎憎しげに、そして汚いものを吐き出すように語 った。彼の話の概略はこうである。
 党に隠れて「分派」を形成した一部の者たちは特定のグルー プの支援を受け、「朝鮮人参」の販売事業を通じて資金作りを 開始した。彼らはその収益で「分派」の運営資金を賄おうとし た。しかも、一方では民青に居残れないことも考慮し、「卒業 」する場合には退職金の支払を公然と要求した。君たちの「仲 間」がやっていることや、言っていることの本質はこういうこ となのだと。
 「朝鮮人参」や「ジャパンプレス」に関する「予備」知識を 持たぬ私が、諏訪の話を聞いて驚いたのは言うまでもない。略
 諏訪の話は私にとって驚き以外の何物でもなかった。
 党中央と私たちとの間で敢えて意見の違いがあるとするなら 、せいぜい民青同盟員の年齢引き下げ問題で、それを急激にや るかどうかぐらいのものと思っていた。
 私の主張は総論として若返りに賛成でも、いざ実施にあった ては民青の実際に無理が生じないよう、経過処置を含む弾力的 運用に十分心がけるべきであるという立場だった。民青中央委 員の諸同志たちとの意見も多かれ少なかれ似たような意見であ ったし、党本部のどこかに「隔離」され、査問を受けている中 央常任委員の同志たちも多分同じであろうと思っていた。
 ところが、そのなかの誰か知らないが、こともあろうに北朝 鮮と結びつき、しかも「朝鮮人参」を売って「分派」の資金を 稼いでいるというのだ。これが驚かずにいられるか。
 私はその時とっさに思ったものである。
 如何にせん、こんな連中と一緒にされてはたまらない。いく ら落ちぶれても外国の手先や「スパイ」の類は御免蒙る。隠微 な策略を弄するのは性分にあわない。私は諏訪の話を頭から信 じた。略
 「朝鮮人参」の話に戻ろう。
 私は諏訪の話に吃驚仰天した。親しくしていた者のなかに北 朝鮮の意向を受け、資金活動をしながら背後で「分派」を操っ ている者がいるというのである。すると私は彼らに踊らされな がら、「党に盾突いて」いたことになる。私はそう思ったとき 、腹の底から怒りが湧いてきた。そして彼らを許せないと思っ た。
 そう思った理由は二つある。一つは外国勢力の手先になって いることだ。私は六十年代に、ソ連や中国の修正主義や教条主 義との闘争を経験している。自分の国の主体的、歴史的条件か ら物ごとを見ないで、外国の党や指導者の言うがままに従うこ とが如何に重大な誤りと損害を招くかをこの眼で見てきた。そ して、実際に彼らとも闘ってきた。私は今も昔も対外盲従分子 にだけはなるまいと決意している。
 もう一つは私と付き合いのあった連中の誰もが「朝鮮人参」 や北朝鮮の話をおくびにも出さなかったことである。このこと は、彼らが私を信用していなかった証拠である。そして、肝心 なことを私に隠して付き合っていたことを示す。
 私は、自分から人の信頼を裏切ることはしない。自分でも義 理堅い性格の人間と思っている。そのかわり裏切る奴は許さな い。そんな奴とは付き合いを絶つ。
 私は諏訪の話を真実のものとして、全面的に受け止めた。
 仲間だと思っていた連中が、私に気付かないように密かに別 の動きを繰り広げていたのだ。彼らは私を疎外している。つま り、私の信頼を完全に裏切っていたのだ。これは人間として絶 対許せない。
 諏訪の話は私の心境をこのように変化させたのである。
 私は後年、「朝鮮人参」が「新日和見主義分派」や北朝鮮と も何等の関係もなく、ましてや「朝鮮人参」を扱った連中が私 を欺いたのでもないことを知る。
 五・九幹部会声明は国際共産主義運動の一部の干渉者に依存 する対外盲従主義者が青年運動、学生運動のなかで陰険で狡猾 な策動をしていると述べている。党中央は当初、「新日和見主 義分派」をそのような「反党集団」と見ていたのである。
 私は五・九声明を見たその時から、この規定に驚きかつ悩ま されてきた。党中央は査問がすすみ、「新日和見主義分派」の 実態が明らかにされるに従い、この分析がとんでもない検討は ずれのものであることを早々に知ったはずである。
 それにもかかわらず、私は「分派」が外国勢力の手先ではな かったことを知るまでにかなりの時間を要した。むろん、党中 央からそのことを聞いたわけでもない。
 私は外国の手先だけには殺されてもならないと「新日和見主 義事件」のずっと以前から思い抱いていた。このことは日本の 共産党員としてよりも、人間として生きる立脚点としての信念 に由来する。なぜなら、私自身は外国勢力の手先と支配階級の スパイとをほぼ同義語で捉えているからだ。国際共産主義運動 の一部の干渉者と結びついていたとする五・九幹部会声明のこ の部分は依然として曖昧にされている。今日に至るも、この規 定を取り消したという話は聞いていない。なぜ事実に相違する 分析がなされたのか、生きているうちに是非とも聞かせてもら いたいものである。これは私にとって名誉にかかわる問題であ る。略

 私が知った「朝鮮人参」の真相は次のとおりである。
 民青の「卒業」を必死とみた池山吉之助等が、「卒業」後に 会社を作って商売をはじめることを思い立ち、その準備に着手 したというのである。いかにも池山らしい発想だ。
 もっとも、「卒業」するとはいえ、民青在職中に個人的営利 を目的とした事業を開始したことは不謹慎であるとの誹りを免 れない。しかし、「分派」や北朝鮮と無関係であるならば、そ の誹りも提灯と釣鐘ほどの差がある。
 次なる人生で、どのように「糧道」を得ようかと考えていた わが同僚たちの「勇み足」に、むしろ微笑みすら覚える。(遺 しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫)
 「北朝鮮の支援を受け、朝鮮人参を売って分派資金をつくろ うとした!」うという主任査問官、諏訪茂書記局員の指摘は全 く根拠の無いものにすぎない。次にジャパンプレスの問題にう つる。
 新日和見主義で査問された評論家高野孟につぎのような証言 がある。
 「おかしいいぞと感じたのは、川端(川端治=山川暁夫 2000 年2月12日死去)さんが何年か前に北朝鮮を訪問したとき、金 をもらってきたんじゃないか、ということをものすごくしつこ く聞かれたんだよ。オレなんのことかわからなくてね。だって ジャパン・プレスは朝鮮中央通信と業務上提携していた関係で 川端さんは訪朝したんだから。どうも代々木は僕たちが朝鮮労 働党から金をもらって、一大反党集団を結成しているという妄 想にとりつかれたらしい。
 党中央には、ジャパン・プレスという通信社のなかにいる被 疑者の言動が北朝鮮の策動にみえたのだろう。お粗末な嫌疑だ った。略
 5月9日の幹部会声明は解説記事の「国際共産主義運動の干渉 主義」を「一部の干渉者」に特定し、それに盲従・依存する分 子が、青年学生運動のなかで陰険・こうかつな暗躍をしている と非難した。つづいて、密室の査問では「一部の干渉者」が北 朝鮮であることをあきらかにした。ところが6月2日の推進本部 の訴えは「一部の干渉者」が一転して「大国主義的干渉者」に かわった。
 当時党中央は大国主義の用語を、ソ連や中国の共産党の干渉 主義的対外政策を批判するときにつかった。大国主義は、いわ ばソ連や中国の代名詞だ。少なくても北朝鮮をさして大国主義 とはいわないし、いってもこなかった。この国の対外政策を特 徴づけるとすれば覇権主義ということだろう。ただ小国だから といって大国主義に無縁ともいえまい。諸条件の蓄積によって 、大国主義意識がさまざまな形態で頭をもたげることはある。
 新日和見主義の摘発から20日あまりのあいだに、国際共産主 義運動の「干渉主義」→「一部の干渉者」→「大国主義的干渉 者」と変転したわけである。いいかえると、北朝鮮からソ連ま たは中国にかわったことになる。これは当初のもくろみがはず れたか、または混乱におちいった証拠である。訴えを発表した 「党創立五十周年記念・党躍進大運動推進本部」の本部長は岡 正芳幹部会副委員長である。推進本部は臨時に設置されたとは いえ、党中央を代表する機関である。
 6月2日頃、供述書は膨大な量を重ねていたはずである。しか し被査問者のだれも国際勢力の指令や支援を認めなかった。党 最高幹部は各種の供述を詳細に検討したが、国際的干渉者が確 信ある形で浮上してこないことに焦りと苛立ちをおぼえたのだ ろう。だから推進運動本部の訴えで「かれらは、大国主義的干 渉者の名をいわずに、党の綱領や規約を守るかのようによそお っている」と書いた。しかし、もともと新日和見主義に国際的 背景はなかった。
 ソ連派や毛沢東派は国際共産主義運動の大波乱のなかで発生 した。だが新日和見主義をそれに擬することは不可能である。 国際的背景を疑いながら摘発・査問に入った党中央の「初動捜 査」は完全な誤認であった。
三 消えた国際的干渉者
 「1972年6月12日の幹部会から第十二回党大会まで」の文書 は、「被疑事実」もとづき査問した結果の「犯罪事実」である 。ところが口をきわめて非難した国際共産主義運動の干渉者の 記述がこの文書にはない。「被疑事実」のなかから決定的な要 件が抜け落ちた。わずかに6月2日の幹部会の解説記事に、中国 の干渉者や盲従分子の党攻撃に「事実上呼応」したと書いてあ るのみだ。
 そして、この記事以降、国際的干渉者の文言が完全に消えた 。説明は一切ない。結局、査問は国際的干渉者が存在しなかっ たこと、新日和見主義者が対外盲従・依存分子ではなかったこ とを逆証明する結果となった。「被疑事実」に重大な錯誤があ ったわけである。そうだとすると、摘発・査問は、無効または 取り消し要因となる。
 党最高幹部は当初の見込みとちがったことに、ある種の無念 さをおぼえたにちがいない。それは無謬性の神話に彩られた輝 かしい履歴に、ある種の汚点をあたえた。だが、それを隠蔽す るかのように、自分たちの統制行為にいささかの変更を加える ことなく新日和見主義を排除していった。一般社会では、予断 にもとづく捜査はこっぴどく批判されるが、共産党にはそれが ない。
 「赤旗」に発表されたまちがいがそのままになっている。党 員の体質に「赤旗」にたいする絶対的「信仰」がある。訂正の 声明がでない以上、新日和見主義は外国の手先だったと信じつ づける者も多かろう。(虚構 油井喜夫)

 以上から新日和見主義者が、内外の反動勢力の手先でないこ との証明は十分だろう。
 以下再び油井喜夫氏の遺しておくこと ある新日和見主義者 の回想、汚名、虚構などをを引用して反動勢力のスパイが査問 ・処分された側ではなく、査問・処分した側ににいたことを示 そうと思う。

 ただ、私がここで強調したいのは、「新日和見主義者」はス パイではないということである。
 「新日和見主義」事件は革命運動の担い手として、最も依拠 すべき青年同盟の中枢部を「直撃」した点で、党中央を震撼・ 激怒させた重大事件であった。
 後年聞くところによれば、党中央は、これほど驚愕すべき大 事件を引き起こしたのだから、「新日和見主義者」のなかに間 違いなくスパイがいると踏んだらしい。ある者は公安の顔写真 まで付き付けられて糺問されたという。
 しかし、皮肉なことに「期待」するスパイは処分された側に いたのではなく、処分する側にいたのである。「新日和見主義 」事件終結のあと、しばらくしてからそのことが相次いで発覚 される。
 困難な闘いのさなか、スパイたちは民青中央で「大言壮語」 を吐き、そしてある時は疑心暗鬼を振り撒きながら、「事件」 を挑発する機会を狙っていた。
 その卑劣なスパイとは「新日和見主義者」の「退治」で「有 名」をはせた北島(注:民青大阪府委員長、民青中央常任委員 、注は風来坊)であり、西村である。
 私は思う。この一件をもってしただけでも「新日和見主義」 事件は、冷静な科学者の態度をもって再調査されるべきである 。
 西村のごときは愛知県委員長として、「新日和見主義者」の 処分を承認した民青第十二回全国大会で、こともあろうに都道 府県委員会に贈られる最高の栄誉である「解放旗」まで受け取 っている。 (遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫)
 1974年、前民青中央常任委員・大阪府委員長のK(北島)が 公安警察のスパイとして摘発された。つづいて、翌75年、現職 の民青愛知県委員長らもスパイであることが発覚した。ところ が、愛知のスパイの親玉は前愛知県委員長・N(西村)である ことがわかった。
 彼らは新日和見主義「事件」当時、スパイとして潜伏してい たが、K(北島)は「事件」から二年近くのち、N(西村)は三 年半後に正体がバレ、除名された。「赤旗」によれば、K(北 島)は査問に応じ、N(西村)は査問の途中、警察の手をかり て逃亡したという。私はK(北島)とN(西村)の摘発記事が「 赤旗」に写真つきで載ったとき、強い衝撃をうけた。私たちを 処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾 で大いに活躍した。
 K(北島)やN(西村)は、影に陽に教育・学習と闘争、拡大 と闘争の関係など民青中央委員会の議論を巧妙にあおってきた 人物だった。彼らは大県風を吹かせ、人を小馬鹿にしたところ があった。
 スパイ・N(西村)は九中委でとくに活躍した。ある人が、 「闘いながら学び、学びながら闘うという観点が重要だ。学ぶ ことだけを自己目的化したのでは中教審答申のような考え方に おちいる」とあたり前の発言をしたところ、「中教審答申とは 何だ!その発言を取り消せ!」と、大声でヤジをとばした。綱領 確定から一〇年以上も絶えて久しかったヤジを復活させ、正論 を封じようとしたのである。ヤジられた人は、結局「事件」で 処分された。
 彼らは学習活動の比重を高める六中総の方針を堅持した党員 として評価された。しかし、そのウラで、新日和見主義者が「 学習活動を強化することに徹底的に反対した」という重大な歪 曲が行なわれた。
 K(北島)は1960年5月、入党する以前から権力機関の人物と 接触をもち、潜入して以後も知りえた党と民青、民主団体の動 向などを逐一権力機関に報告するとともに、詳細にメモした各 種の会議ノート、資料なども売りわたしていたという。彼は被 査問者に「新日和見主義粉砕」のステッカーを書かせ、民青事 務所の周辺に張らせる指示さえした。党内問題を使って一般社 会にまで撹乱を広めようとする、いかにも公安警察のロボット らしいやり方だ。
 一方、N(西村)は党中央幹部に、にこやかに接触すること で知られていた。要領のいい男で、組織をスリムにしてから県 委員長の任務を引き継いだ。だから、同盟員や「民青新聞」拡 大の到達点を他県より高めることができた。新日和見主義を処 分した民青第十二回全国大会では、都道府県委員会に贈られる 最高の栄誉―「解放旗」まで手にした。委員長がスパイの県に 与えられたのだから、ずいぶん皮肉なことだった。
 党中央の報告によると、N(西村)は「1971年~2年新日和見 主義分派発生のさい、すでに分派活動をやっていた」「72年に はひそかに同調者らと協議し、民青同盟中央の委員長になる計 画を立て、党と民青同盟による新日和見主義分派の摘発によっ てその陰謀が不成功におわると、新たに、民青同盟の大会をめ ざして、かれの気にいったものを民青同盟中央に潜入させるた めに陰謀をめぐらせていた」「スパイ挑発者の策動は、たんに 党内情報の提供だけにとどまらず、党の政治的、組織的方針を わい曲し、党と大衆とを切り離し、さまざまな手段、方法で党 活動をかく乱、麻痺させ、党の破壊をくわだてている。(第十 二回党大会後に摘発されたスパイ挑発者との闘争の教訓 常任 幹部会員、統制委員会責任者 戎谷春松 以下戎谷報告)
 K(北島)やN(西村)のスパイ活動が新日和見主義「事件」 から三年半後に公表されたのは奇異というより、むしろ滑稽な ことであった。N(西村)の民青中央委員長になる計画にどれ ほどの真実性があったか知りようもないが、戎谷報告によれば 、N(西村)らは新日和見主義「事件」の最中に分派活動をや っていたわけである。
 支配階級は六十年代末から七十年代初頭の、共産党の選挙で の前進、革新自治体の広がり、七十年闘争から沖縄闘争にむか う大衆運動の高揚、二十万人の組織に成長した民青などに危機 感を抱いていた。スパイ・K(北島)やN(西村)に、党と民青 の間そして民青中央委員会のなかに混乱やクサビを打ち込もう とする挑発の意図がなかったか。戎谷報告は、そのことを裏づ けていないのか。
 この点からも新日和見主義「事件」はあらためて見直すべき だろう。(汚名 油井喜夫)
 民青大阪府委員会におけるような、いささか異常な「学習」 と「労働」の例もあった。
 学生運動以来の友人である山井も含めて一〇名弱の者がこの 異常な体験をもつ。彼らは、民青の府委員会事務所に出勤する と会議室に収容され、そこで「新日和見主義粉砕」の「伝単」 と呼ばれる手書きのポスターを書くことを要求され、府委員会 の建物の中ばかりでなく、それを町中に貼ってくることを指示 された。だがさすがに「党内問題を党外に持ち出す」ことにつ ながるような、「町中に貼る」行為は中止された。
 大阪府委員長北島某は民青中央常任委員を兼任していたから 、私のかつての同僚でもあった。北島は、党が査問の体制に入 ると同時に率先して「分派分子」の摘発に乗り出したという。 その北島が府委員会における異常な学習と労働の指揮の先頭に 立ったのであった。彼はその後の民青全国大会で無事「卒業」 し、党本部勤務となり重要な仕事に就いた。新日和見主義「一 派」との果敢な闘争で、北島に対する党の評価が一挙に高まっ たからだという風評が立った。国会で、不破にぴったりと寄り 添っている北島の姿を見た、というウワサもあった。
 それからあまり歳月も経っていないある日、私はその北島に 関する「赤旗」の報道記事を読んでアッと驚いた。二面の目立 たない小さな記事だったが、北島がじつは長期間にわたって公 安当局のスパイであったことが判明したこと、したがって党は 断固としてこの者を除名処分にしたことなどが書かれてあった 。
 ギラギラとした自信過剰と強い者に対する追従が、この男に は奇妙に共存していた。そして酒を飲むと精神のバランスを崩 した。寿司屋で板前から包丁を取り上げ振り回したことがあっ た。そして宿舎に帰って泣いていた。私たちが査問で摘発され る直前のころだった。
 「赤旗」の記事を読みながら、あのころのことを思い出した 。ふてぶてしいあの男も、どこかで心のバランスを崩していた のだろうか。新日和見主義事件が「事件」となっていく過程で 、彼は何らかの役割を果たしたのだろうか。
 北島に関する「赤旗」報道があったころ、民青愛知県委員長 だった男(西村)が同じく公安筋から金品等の提供を受け、代 わりにそこに情報を流していた事実が「赤旗」に発表された。 彼もまた北島と同じように「われわれ」を糾弾する急先鋒であ った。
 「事件」当時の「向こう側」の役者が相次いでヘンな結末を たどった。「事件」には、私がうかがい知れないような大きな 背景があったのかもしれないと思った。(査問 川上徹)

 以上見てきたように反動の手先は査問される側ではなく、査 問する側だけにいたのである。これだけでも、査問する側の正 当性は、問題がある。この事件は再検討されるべきである。
 その上、新日和見主義事件で、処分された中央常任委員は、 十五名中七名ということは、処分した側は八名スパイ北島は中 央常任委員だった。だとすると北島を除くと査問する側は七名 、吉村または査問する側から議長を一名出すとすると査問する 側は六名。という事は査問する側は、このスパイ北島の助けを 借りないかぎり、どんな動議を出しても過半数を確保できない 。公安のスパイの助けを借りてしか確保できない決議に組織論 的にどのような正当性があると言えるのだろうか。この点から も、新日和見主義事件は再検討するべきだと思う。