2千年前の芸術作品と現代の名も無い芸術家の作品を比べてみます。
どちらも心惹かれる作品であることを考えながら思うことは、科学とは違って芸術はむしろ没落しているのではないかということです。
未開社会では、誰でも生活のものを想像する芸術家でした。
しかし、社会の進歩は分業化され、現代社会では、ものを作る人は一部の人になってしまいました。
分業によって人類は進歩したといいます。
分業は芸術家という専門家を作り出し、表現の技術を向上させ、洗練された作品を生み出す結果をもたらしました。
しかし、一方では、一般人を鑑賞者という枠組に転落させ、創造する喜びを奪ってしまったのではないでしょうか。
芸術家の作品は、表現技術の総体であるのに加えて、その人の世界観や社会観、人間観、人生観をを表現するものです。
その様相を反映して芸術は体制=権力による民衆の支配の道具・思想教育の手段として利用されてきました。
この様相は、体制=権力だけではなく、反体制陣営も芸術を政治闘争の道具に役立てようとしてきたのです。
日本の戦前の左翼運動は、プロレタリア芸術運動を組織して、芸術を「革命の進軍ラッパ」と呼び、「労働者農民に共産主義を宣伝し党のスローガンを大衆に広める」ための手段と考えました。
アジテーションという考え方も芸術の一分野と考えていたようです。
アジテーションは、今の共産党の議員の金太郎飴のような話ではなく、法話のようなお話をしながら、最後に思想を付け加えるという面白いものだったようです。
この芸術を政治に利用すること自体は、不当でも違法でもなんでもありません。
しかし、考えて見ると本来芸術はそのようなもののために存在するのではありません。
昔は国王や貴族に従属していた芸術家が、現代では政党やその指導者に従属する御用芸術家になってしまったのでは、芸術家はいつまでたっても奴隷としての地位から抜け出せないでしょう。
20世紀に入って、芸術は技術と一体にする過程で、物神崇拝思想に取り付かれたと言われています。
技術の進歩は、レンズやフイルム、機能主義、コンピューターなどによって表現技術の進歩のよって、映画や建築、TV、アニメーション、音楽、デザインなどのあらたな芸術の分野を創出させました。
技術は、芸術の可能性をそれまで創造できなかった規模で増大させました。
しかし、技術=芸術という図式が行われ、この技術に対する至上主義的崇拝が芸術をかく乱してきた歴史でもありました。
これは、たとえば、グラフィックデザインにコンピューターが注入されDTPやWEBという概念になってから10年ですが、オペレーターがいくらコンピューターを操作に熟練しても、デザイナーになれる十分条件にならないという事例からもわかります。
芸術家にとって技術は「従」であり、「主」が表現や人間観などであるという本質を見失ってはいけないということでしょう。
芸術とは何かでしょうか。
芸術家の作品は、表現技術の総体であるのに加えて、その人の世界観や社会観、人間観、人生観をを表現するものです。
個人や社会の様相を、パトスにとって表現するのが芸術です。