蔵原惟人さんが60年代に「マルクス・レーニン主義の文化」という書籍を残しています。
そこで文化とは、「食物、衣服、住居などの生産と利用にかかわるすべてのもの、家族、生産、社会などのすべての関係や制度」であり、狭い意味での意味を「風俗、習慣、道徳、宗教、言語、教育、スポーツ、娯楽、芸術、科学、哲学などの総体」と述べています。
文化とは、社会構造の土台=物質生産が上部構造=文化を規定するとされています。
しかし、文化を土台-上部構造の関係だけでは収まりきれない問題も多々あると言われています。
私は、文化の表象の表れとは、流行の表れに凝縮されていると思います。
流行は、10代の為に意味ある表象として機能していると言います。
少年少女の直感的感性は、流行にクリスタルのように敏感です。
この時期構築された感性のキャパは、その後の人生の文化の様相のすべてを規定するからです。
話は、70年代にさかのぼります。
最近は、個性的番組が姿を消して、金太郎飴のようになってしまう傾向にありますが、ラジオから流れてくる音楽やお話は、文化そのものであり、少年少女にとって、重要なメディアでした。
流れてくる最新のジャズやロックは、無料の情報は衝撃的発見でした。
ミュージシャンに憧れ、長髪にジーンズを履きました。
少年少女はレコードが買えませんから、カセットテープを買ってくてラジオから録音を重ね聞くのでした。
しかし、平等に無料で投下される音楽に刺激的に反応する人と聞こえても聞こえない人がいました。
少年少女は、本屋さんによく行きます。
参考書だけを見ているわけではありません。
そこには、たくさんの写真やコピーで彩られたカラフルな表紙の書籍や雑誌が並んでいます。
何人かは、買えるわけではありませんが、書籍や雑誌を除いてみます。
そこにはさまざまな情報が掲載されています。
雑誌は買えないのですが、流行のファッションの情報、アートやインテリア、ジャズやロックのアーティストの情報、少年少女漫画、映画や演劇、コンサートの情報など、それらの情報は、少年少女にとって衝撃的でした。
お金はありませんから、買えませんが情報を入手し、感性を鍛える肥やしでした。
しかし、その平等に投下される情報ですが手にとって雑誌を見える人と見えない人がいました。
街には、さまざまなショップが立ち並び、たくさんの看板が並び、商品が溢れています。
そこは、学校の行き帰りの通りや休日に出向く場所です。
店の中には、300円くらいの少年少女向けのそこにしかないTシャツが置いてあり、少年少女が集まってきます。
しかし、同じ300円を、お菓子やジュース、たばこや酒を買う少年少女がいます。
また、参考書に費やすのも選択肢でしょう。
それは、少年少女の目の前にある300円から見える構図の差異なのでしょう。
少年少女は、テレビっ子でした。
カラーテレビが家庭に投下されたのは、小学校の高学年だったでしょうか。
ウルトラマンや仮面ライダーがヒーローの代表でした。
歌謡曲からドラマ、ドキュメンタリー、スポーツなど、テレビではあらゆる情報が投下されました。
少年少女は、スポーツ部や文化部の活動に取り組みました。
世の中の大半のスポーツファンの多くは野球オンリーでしたが、それぞれさまざまなスポーツを選択して、一生懸命に取り組みました。
ブラバンや美術部、音楽バンド、理科部など、それぞれがプロフェッショナルを目指しました。
そんな中、帰宅部と言われる授業が終わったら急いで帰るグループがおりました。
少年少女の中には、不良と言われるグループがおりました。
髪型をリーゼントにして、暴力を振るい、恐喝を行い、タバコを吸い、酒を呑み、パチンコをし、バイクで暴走行為を繰り返すことがカッコウがいいという価値観を持っていた少年少女でした。
少年少女は、勉強をします。
これもひとつの流行で、この勉強とは、弱いものを押しのけ受験戦争に勝ち残るという資本主義のもっとも汚い様相に組む込まれたものでした。
しかし、資本主義の意図とは関係なく、自主的に問題意識を持ち、自分のテーマの勉強をしていた人も少なくないでしょう。
少年少女は、恋愛をします。
恋愛といっても、流行のひとつで、ほとんどの場合、スターに憧れる延長上にある恋愛であり、恋愛を始める序章的なものだったのではないでしょうか。
流行の営みから見えてくるこの文化とは、「見えること、聞こえること」ではないでしょうか。
人は見えるものすべてを見ているわけではありません。
人は聞こえるものすべてを聞いているわけではありません。
見えたものが本当に見え、聞こえても本当に聞こえる時、文化となるのです。