党員用討論欄に多喜二・百合子賞と野呂栄太郎賞の廃止についての投稿があったので、一言。
これらの賞がどういう経過でもうけられたものかまたその廃止の理由などについてまったく知りません。ただ、わたくしが共産党にもこういった賞があることを知った時に奇異な感じがしたことをおぼえております。
文学界では個人の名を冠した賞があることは周知ですが、これらはもともとすべて大手出版社のコマーシャリズムの必要からおこなわれていることは否定できません。さらにいうならばおよそ個人の名を冠した賞など受賞者当人の業績を顕彰するためというよりは、その個人の名をかりてその筋の権威を確立し独占するためであって、文学や社会科学の本来の発展とは無縁のものではないでしょうか。およそ賞などとゆうものは愚劣なものだとまではいいませんが。
小林多喜二はわが国の文学史ではプロレタリア作家として誇るべき位置をしめています。宮本百合子がそれとならび称せられていると同質性があるとおもわれてしまいますが、両作家の精神世界はまったく異質のものといってよく、百合子の文学はプロレタリア文学とはとてもいえないとおもっています。いうならば「近代的な知性」に覚醒していく小ブルジョア知識人の内面世界をえがいたもので、かつてわたし自身もそういう時期があったので若い時にとても共感をもって読んだことをおぼえています。いまおもえばこうした賞は百合子文学の地位を政治的に高めることに利用されてきた感があります。
文学論はこのくらいにしておきますが、革命烈士ならともかく文学や理論活動でその作者個人を顕彰するという発想そのものがプロレタリア世界観と合うものではなく、多喜二はあの世で苦笑していたのではないでしょうか。