【音楽と「・・・的・・・主義」:感じること】
ひろくJ-POP、ゆづ、モー娘、あゆ(浜崎あゆみ)、ラルク
アンシェル、ちょっと前だと安室奈美恵、小室哲哉系サウンド
や小林 武 辺りが存したわけだが(現在40歳ぐらい以上の
世代の方々では、或いはサザン(サザンオールスターズ)やユ
ーミン、おニャン子クラブ等だろうか??)。
確かにそれらポップスに対する或る種の嫌悪感・蔑視感のよ
うなコダワリをお持ちの向きは、少なくないと感じる。
だが、《党の文化》と言おうか空気の中にはまた独特の《対
音楽観》みたいなものが確かに感じられるようだ(ただ、この
傾向が、党の方々の全員に見受けられるとまでは思いたくない
が。)。
便宜上、ここでは広義のロックも含めることにするが、一様
に共通するのは、これらポップス音楽を《頽廃した・堕落した
》ものととらえる傾向が、確かに感じられる。 オジサン達は
どうなのだろう? 党のセンスだと多分、演歌辺りまでもが“
ブルジョア的頽廃物”の範疇に入ってしまうのかもしれない(
?)。
なかでもこれは「特殊中の特殊」と思いたいのだが、音楽の
栄枯盛衰(流行、ぐらいに考えてください)現象にまで唯物史
観をあてはめるかのように、“ブルジョア文化は必然的に没落
する”と言い放った元専従氏がいることだ。自信たっぷり、大
まじめで断言したその専従氏に対し、普段コチコチの取り巻き
達ですら「ちょっとそれは拡大解釈しすぎだよ」と指摘しては
いたが・・・、
・・・気持ち悪いとはこのことだ。
ほぼ間違いなく、不破氏を筆頭に県党クラスに至るまで、同
様の歪んだ《対音楽観》とでも言うべきものを共有しているの
ではないか、と思う。現代の音楽は、そのジャンルだけでも非
常に細分化していることはあらためて言うまでもない。
《前衛エリート主義》或いは《前衛芸術論》なるものに心酔
してしまっている人たちは、自らの貧相な対大衆音楽蔑視観を
正当化するために、ひろく親しまれているそれらを曲解し、“
ブルジョア的頽廃物”だの“ブルジョア的堕落の産物”などと
いうレッテルを対象物に援用、貼り付けているにすぎないので
はないだろうか、とこう思わざるをえない。
ビジネス化(悪い意味で制度化)による広義のメディア戦略
が現代の大衆音楽を没個性化・平準化させる作用で働いている
ことは、確かに健全な行き方ではないだろう。「世が世なら儲
かるものだけを」と言わぬばかりのビジネス至上主義路線の醜
悪さ、音楽版悪貨は良貨を駆逐する。そこまでは同じ見解だ。
だが、ワールド・ミュージックや、第三世界の民族音楽の要
素とロック等をフュージョンさせるなどといった新しい(今と
なってはもはや新しくもないか。)試みはあり、安易なビジネ
ス化にアンチテーゼを突きつける興味深い動きも確かな潮流と
なっている。
党中央や専従らがこうした潮流を認識しているようには到底
、感じられない。だいいち、ジャズに対しても「あれはブルジ
ョア音楽にすぎぬ」などと一蹴するセンスなど、無党派からソ
ッポを向かれること間違いなし。今すぐ歪んだ音楽観を改める
べし。個人的な好き嫌いの類いを特定のイデオロギーにすり替
えることことなかれ。
党系のさまざまなイベントにおいても、とくにベテラン世代
主催のそれにあっては、若い世代に耳馴染みのない音楽がとて
も多い。指摘されるまでもなく、「歌えない」のはこちら側の
不勉強もある(?)だろうし、それはぼくらも歌えるよう、事
前に声の準備とかをしてから臨む必要も感じはする。そういっ
た理屈はわかるしぼくらもできるだけ努力はするつもりだ。
が、そうはいっても、レパートリー曲目をみただけでそそく
さと会場をあとにする同世代の気持ちがとてもよくわかるのも
正直なところだ。受忍限度というものがある。
ベテラン主催者には申しわけないが、曲目が『さとうきび畑 』などの類いばかりでは、やはり親しみが湧かない。ややマン ネリ気味だが、せめて『イマジン』『世界で一つだけの花』ぐ らいはオジサン世代の方々も歌えるように努力してほしい。そ れぐらいの歌詞レジュメは容易に用意してくれるはず。