「音楽と『・・・的・・・主義』:感じること」を読みながら、党の文化政策の旧態依然とした思考というものを止揚していく必要性の共感しながら描いています。
ポップス音楽を《頽廃した・堕落した》ものととらえる傾向は、中央から末端まで含めて小児病のように根強く浸透しているからではないでしょうか。
この小児病からロシア革命を前後した時期、ロシアアバンギャルドという前衛芸術運動が開花しておりましたが、スターリン体制の中で、弾圧されて消滅してしまったことを思い起こします。
美空ひばりやコシノヒロコは、貧乏のどん底から日本一の歌手やデザイナーになったように、党の文化政策が、貧乏だけを言い訳にした土台と上部構造だけの説明で文化が語られてしまっている現実を止揚する必要があると思います。
私は、このように考えているのだと思います。
人は、言葉でものを考えていると言われるが、はたしてそうだろうか。
人は、言葉以上に映像や音楽といったツールをたよりにものを考えているのではないだろうかと私は考えています。
60代以上の戦中戦後世代にとって、文字文化は共通した価値観であった時代がありました。
文学青年が時代のトレンドだった、それはそれで古きよき時代だったと思います。
しかし、団塊の世代以降の映像や音楽に囲まれて育ってきた世代にとって、言葉の生命力の低下は避けられない現実でしょう。
情報や主義思想を使えるツールとしての文字中心の書籍や雑誌の求心力は低下してしまい、変わって映像や写真、デザイン・イラスト、音楽といったものがツールの中心になっている現実を直視する必要があるのではないでしょうか。
子供にとってテレビの登場は、生活のすべてがテレビ中心にしてしまい、情報のすべてを映像にしてしまいました。
テレビ文化とは、ものごとを映像で考え判断する文化だと思います。
戦後すぐ、日本にジャズブームが開花し、団塊の世代がビートルズに熱烈に共感して以来、フォークソング、ロックブームと日本人の文化の中に定着していった音楽文化の影響力は膨大でした。
その影響下、あらゆることを音楽で表現し考えもすると言っていいでしょう。
今や雑誌のデザインの方法も、編集コンセプトをきめた上で、まず写真やイラストをレイアウトし、そこからスペースを規定し、ライターがコピー(文字原稿)を書く時代です。
現代においては、文字や文章というものは、情報や主義思想を伝える上で、二次的副産物になってしまったといっても過言ではないかもしれません。
ここ20年間の間には、テレビゲーム文化というものが浸透しました。
小さな子供から40代の世代まで日常的に熱中しているテレビゲーム。
テレビゲーム的思考で考え行動する文化というものが形成されているような予感さえ感じさせます。
また、近年のPCや携帯電話の普及で浸透していっているネット文化は、久々に文字の持つエネルギーを浮上させたのだと思います。
しかしそれは、これまでの社会が意図してきた構図とは違った新しい枠組を形成しようとしているように思います。
人は言葉でものを考えていると考えるのは危険なのではないでしょうか。
言葉で語られたものを絶対化することの危険性を感じないわけにはいきません。
ものを考える方法として、感性を研ぎ澄まして、映像やデザイン、音楽的に思考するする中で、言葉にフィードバックする姿勢というものが要求されているのではないでしょうか。
最後に、こんな党の中央や地方の事務所を思いおこします。
PCをネットに繋いで、iTuuts(無料)でジャズを聴きながら事務をしている風景が日常になるよいうな余裕があってもいいのではないでしょうか。