新日和見主義問題の直接のきっかけとなったのは、共産
党の第11会党大会六中総を基づく民青の年齢引き下げ問題にお
ける民青10中委の党員会議であるとされている。
一部に、この会議は、新日和見主義をあぶりだす共産党中央
の陰謀、挑発とする論もあるが、その真偽は党中央以外の者に
は窺がい知るすべはなく確かめようがないので、油井氏の「遺
しておくこと」の事実経過の引用から入る。
不純な動機を持つものはいない
十中委の党員会議は茨木の報告を受けて始まった。発言者は 次々に登壇した。論議も様々な角度からなされた。
実際には25歳以上の同盟員は13%しかいない問題、学生運動 には「古強者」で年を喰ったトロツキストが多数跳梁している こと。労働組合青年部との関係。25歳で線引すると班がなくな ってしまう問題。党からの幹部引き抜き問題等々。
同志たちはみな民青の前途を考えて、真剣そのものに発言し た。民青を若々しく発展させることに反対するものは一人もい なかった。
問題はそうさせるうえで現実はどうなっているのか。そこに おける問題点は何なのか。どうすれば良いのかなど、実際から 出発して科学的に分析しようとする姿勢に貫かれていた。
良し悪しはともかく、民青中央委員として日常の青年学生運 動に接している。リアルな現実に毎日直面しているのだ。従っ て、問題の所在の深め方も鋭い。
発言者の全ては若返りを成し遂げるうえで、急激で一律的に 行なうことに「危惧」を抱いていた。その「危惧」は民青幹部 としての悩みでもある。この「危惧」が説得力を持って解決さ れれば問題ない。つまり、若返るための「段取り」と分析をど のように進めるかにあったと思う。
彼らの発言の意図のなかに、民青に居残ろうとする、ために する発言などは微塵にもみられなかった。
私も当然のことながら発言した。発言時間は私が一番長かっ たかもしれない。私が発言を終わるころ、茨木が席を立って階 下に向かうのが眼に映った。
この時、私はなぜか胸に過るものを感じた。党中央との電話 連絡ではないのか。
民青中央の党員会議は党中央の提起する同盟員年齢引き下げ にすんなり応じる気配にない。このまま会議を続けても急激な 引き下げ論に疑問の意見が提起されるだけだ。茨木を含む党中 央はこのように判断したのかも知れない。
党中央が「新日和見主義」問題を、「事件」として位置付け る「発動」をしたのはこの時ではないのか。
茨木は、私の発言が終わってから、2,3の同志の発言ののち 、討論を打ちきった。そして、まだ発言したい人と尋ねたとこ ろ、実に数十人の同志が一斉に手を挙げた。私は民青中央委員 を三期勤めている。民青中央の会議でこのような状況を見たの は初めてである。
茨木は、民青中央委員が年齢引き下げ問題に疑問を提起する 理由を、民青から強制「卒業」させられたくないからだと考え たのであろうか。民青中央委員の大半は幹部は三十歳までとす る若返り案にすっぽりはまる。
茨木は討論を打ち切ったのち、次のように述べた。
「私は二七歳で党の県委員長になった。君たちも党の要請と あらば、どこへでも行く覚悟がなければならない。」
八中委の党員会議で、民青に居残るために様々な意見を提出 したと思うならば、それは的外れも甚だしい。
民青を「卒業」したら、自分はどうなるだろうかくらい考え るのは専従者であれば当たり前のことである。しかし、そのこ とと民青の年齢引き下げ論を深めて考えることとはまったく別 である。民青中央委員中に、「保身」のために年齢問題で意見 を述べた不心得者は一人もいない。
彼らはみな民青と青年学生運動に心底から献身している。彼 らは民青の現在と将来をわが命と思っている。そして比類のな い、なみなみならぬ責任感に満ちている。そこに不純な動機を 持つ者はいないはずだ。もちろん、私は全員の心底をたしかめ たわけではないから断定はできないし、「個人的不安」が全く 自分の意見に反映しなかったとは言えないかも知れない。しか し、ものごとには基本的側面と、そうでない側面があり、決定 的に重要なことは正規の会議での発言それ自体を評価すればよ いことなのだ。
茨木の顔は紅潮していた。
総論としての若返りにはみな賛成であった。だが民青中央委 員会内の党員会議が、第十二回大会を期して一般同盟員二五歳 、幹部同盟員三〇歳までとする党中央の具体的方針をすんなり とは受け入れなかったのである。
これは幹部会委員であり、青対関係の責任者でもある茨木に とって痛恨の極みであったに違いない。党幹部としての威信が 著しき傷つけられたと言うべきか。
しかも、この党員会議で、直ちに規約改正を図るべしとする 意見を提出した者は誰一人としていなかったのである。
茨木は「引き続き年齢問題を検討しよう」と述べ、八中委( 十中委の印刷ミス?風来坊)の党員会議を閉じた。
私にとって後味の悪い、討論の幕切れであった。略
私が何かあったのかと聞いてみると、彼は「党中央の動きが おかしい。十中委の結果に不満を持っているようだ」と言うの である。彼の話によれば、中央常任委員の何人かが党中央から 呼び出され、帰って来ないという。
私は登川の話を聞いて、即座にズキンとくるものがあった。 それは、茨木が十中委の党員会議を閉じたときの、強く残った 後味の悪さである。
私は前衛党の党員である。党中央の決定には規約上、無条件 に従わなければならない。しかし十中委の党員会議は党中央の 意思を代表した茨木の年齢問題に関する提案を事実上、「継続 検討」扱いにしたのである。党中央の意思が、特定組織の党員 会議で「継続検討」にされたことは第七回党大会以前ならとも かく、綱領確定後ではあまり例のないことだろう。
後味の悪さとはこのことである。前衛党の原則からすれば党 中央の方針は最高のものである。全党は党中央の方針には従わ なければならない。
十中委の党員会議では六中総の決議と内部指導としての若返 り策にはみな賛成した。だが、二五歳、三〇歳の具体的年齢で はすんなりといかず、引き続き検討することになったのである 。つまり、ここのところが前衛党の原則と一定の乖離をきたし ていた。
私の胸奥に残った後味の悪さは党の組織原則と「継続検討」 扱いになったこととを比較考慮した結果かもしれない。
しかし、茨木は十中委の党員会議で二五歳、三十歳問題を意 見聴取の形で指導した。従って、会議の参加者は青年学生運動 に直接身を置く者として、自己の意見を開陳することになる。 そうなるのは会議を主宰した茨木の議事の進め方として、自然 の成り行きであった。
その結果、発言者の全てが若返り「政策」に賛成しながら、 性急な年齢制限には疑問を呈したのである。意見はみな真面目 で、問題点を鋭く指摘していた。そこには、ためにする発言は 微塵も見られない。聞いていた茨木ら党中央の青対メンバーも 議論の中身には決して口を挟まなかった。年齢問題を「継続検 討」扱いにしたのは茨木である。そうしたのは二五歳、三〇歳 を直ちに実施すべきとする意見が皆無で、しかも発言希望者が 数十人にも昇ったからであろう。
党中央は民青の新たな発展のために、第十二回大会を期して 年齢条項の規約改正をはかることが決定的に重要であるならば 、この党員会議で、会期を延ばしても強力な指導と説得を行な うべきであった。だが茨木はそれをしなかった。
民青中央委員会は個々人において様々な欠陥を持つにしても 、第七回党大会以後、九中総の民青に関する決議に導かれなが ら、五〇年代、六〇年代の闘争を闘ってきた党に忠実な党員に よって構成されている。党の組織原則に背くものは一人もいな い。何と言っても六中総の若返り策に賛成している。茨木が十 中委の党員会議を本気になって指導したならば、意見や疑問が あっても党中央の方針に団結する。そうした点ではみな鋼のよ うに鍛えられている。
十中委の党員会議はそのように組織され、位置付けられて欲 しかった。そうであれば決して後味の悪さは残らなかったはず である。
しかし、事実は思いも寄らぬ方向に進んだ。すなわち、党中 央は意見を提起した者を規律違反とする舵をとったのである。
(遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫)
以上が新日和見主義摘発出発点となった十中委の党員会議の
経緯である。
党中央は年齢条項を分派策動を行なうために民青に残るため
だと批判する。以下の査問官の諏訪茂書記局員とのやり取りを
見て欲しい。
「宗は全国大会後も民青に残り、枢要な地位をねらって「分 派」の人事構想をめぐらしていたんだ」
ー人事構想だと?
「宗は君にその構想を示したはずだ」
「は?」
「どんなものか全部喋るんだ!」
「そんなこと何も聞いてません」
「ウソをいえ!」
「本当です。何も知りません」
「証拠は握っているんだ」
ここまでいわれたのでは黙っているわけにはいかなかった。 私は除名を恐れ、諏訪の心証を悪くしないよう心がけてきたが 、このときだけは興奮した。
「宗君がそう言ったんですか」
「オレが聞いているんだ。質問に答えろ!」
「僕の知らないことです。聞いていないものは聞いていない んです」
私はきっぱりいった。
「君は何になりたいんだ」
「何って、何ですか」
「民青本部でやる役職だよ!」
今度は私の人事上の望みは何だったか聞いてきた。
「僕が民青の中央に出るということですか」
「そうだ!」
「冗談ではありません。僕は「卒業」するんですよ。今度の 大会で」
「そんなことはない。宗と約束した君の役職があるはずだ」
「役職?」
「ごまかすな!」
欲しかった役職だと?いったい党中央は何を血迷っているの か!ふざけるにもホドがある。
全身が熱くなってきた。血が頭に昇っている。このときだけ は諏訪と正面から対峙していた。ひどい疲れも忘れていた。諏 訪が怯んだようにみえた。
「君は正直だと思っている。話すんだ」
「それほどいうなら、ここにいる大須賀さんに聞いてくださ い。私はずっと以前に今度の大会で「卒業」することになって いるんです。党の県委員会に行くことになっているんです。大 須賀さんには事業部でも何でもやるといってあります。大須賀 さんが証明してくれると思います」
諏訪のねらいは明らかだった。新日和見主義「分派」が民青 中央を牛耳る人事構想をもっており、宗との間で、私の役職に 関してどのような約束が交わされたか、追及しようとしたのだ 。
とんでもない話だった。そんな約束などあろうはずもなかっ た。ないどころか、いくら私が打倒対象の「反党分子」であろ うと、もう少し組織のイロハを知っている。まるで自分が民青 本部の重要な役職に出世するために、宗と結託して「分派」を 組織し、閣僚名簿までつくっていたことになる。私は、怒りの 言葉が噴き出てくるのを必死で抑えながら、胸奥で思いきり叫 んだ。
-何と情けないことを!バカも休み、休みにいいたまえ!私は 地位をえるため汚い寝技を使うほど落ちぶれていない!党中央 はそこまで疑っているのか!
だいたい、民青本部の役職が、なぜ出世や自己の地位と関係 があるのか。党から民青の役員に任務づけられることの重要性 を否定するつもりはない。しかし、私はそれを出世などと考え たこともなかった。誤解を恐れずにいうなら、たかが民青の役 員ではないか。民青の役員になることは、その後の長い民主的 運動の出発点にすぎない。私は宗に頼むほど民青の役職に執着 していなかった。それどころか、第十二回全国大会を期して民 青を「卒業」し、新しい任務につくことになっていた。
(汚名 油井喜夫)
民青第十二回全国大会は(1972年9月)は新日和見主義を排 除し、六中総に従って年齢引き下げの規約改正を行なった。そ の結果おそれていた同盟員の輪切り的卒業がはじまった。そし て次第に組織運営上の困難も目立ちだした。そのため党中央は 、年齢条項が機械的に摘要されないように指導文書などを発し て是正につとめた。しかし顕著な後退はくい止められなかった 。略
三 年齢問題
年齢問題は、前書「汚名」でくわしく書いた。ここでは三〇 歳問題や引き下げ後の実態を述べることにする。
水口論文は「新日和見主義的潮流は、他の大衆運動の分野と 比較して、経験の蓄積が困難であるという青年運動の特殊性を 口実に、「民青同盟には経験豊富な三〇歳代幹部が必要だ」と 強硬に主張し、「同盟の「若返り」はたたかう幹部を排除して 、たたかわない同盟にするものだ」と中傷し、同盟員と同盟幹 部の年齢構成のひきさげに反対する立場を固執しつづけた」と 批判した。
民青中央委員会で年齢引き下げ問題を討議したのは1972年5 月7日、午前中の二時間ほどだった。
茨木が主宰した党員会議は、年齢引き下げ案に多くの人が疑 問や時期尚早論を述べた。しかし、それは一般同盟員を二八歳 から二五歳に引き下げる問題で、幹部を三〇歳までとする案は 討議されなかった。三〇歳以上は、静岡では私をふくめ四人し かいなかったこともあり、基本的に賛成だった。全国的にも県 ・地区機関の三〇歳以上はまったく僅少だった。それは二五歳 問題とは性格の異なる問題だった。ところが水口論文は経験豊 富な三〇歳代幹部が必要だと強硬に主張したという。
民青の各級組織は第七回党大会九中総(1959年)をへて事実 上の再建大会となった、民青第六回大会(1960年)以来の経過 のうえに構成されていた。地区や班で重要な役割をはたしてい た二五歳以上の指導的活動家層が機械的・輪切り的に「卒業」 する事態になれば、十二年間の活動のなかでつちかわれた組織 上の均衡が失われるおそれがあった。だから意見が続出したの である。
組織にいきおいのあるうちはいい。しかし他の大衆団体にな い「卒業」をくりかえす組織である。ひとたび歯車に支障をき たしたり青年特有のつまずきに遭遇したとき、組織の後退は避 けられない。若返りを実施するにしても、段階的実施や経過的 処置で慎重に対応しなければとり返しのつかない事態も想定さ れる。当時、私はそう思っていた。
ところが案の定、その危惧はやってきた。党中央は、年齢引 き下げが機械的に行なわれる事態が出来し、指導文書を発しは じめた。たとえば1975年(注新日和見主義事件から僅か3年後 風来坊)宮本忠人党中央青年学生部長は「民青同盟の持続的発 展のための援助」と題し、中見出しを「「卒業」問題での誤っ た傾向の改善」として、つぎの論文を書いた。
「民青同盟浦田宣昭委員長の「対話運動の成功と同盟の持続 的発展のために」のなかで提起された民青同盟員の「卒業」問 題は、党にとっても重要な内容をふくんでいます。
(中略)党活動に早く専念させたいという願望から、また同盟 幹部を、不足している党機関活動家にいそいで補充したいとい う動機から、民青同盟組織のおかれている諸条件や、熟練した 同盟幹部の一定数を同盟機関や班組織に保全する必要などを十 分考慮せず、二五歳がすぎたからといって機械的に「卒業」さ せるような指導が一部に発生しています。
それは同盟幹部(中央、都道府県、地区役員、班長、班委員 )の年齢制限が三〇歳であることと、経営班の場合は、対応す る労働組合青年部の年齢制限にあわせて「卒業」すること、な どをあきらかにしている同盟規約を無視し、一律に二五歳で「 卒業」させ、「幹部は若ければ若いほどよい」と考える誤った みかたさえ生んでいます。民青同盟の中核をになう幹部が、機 関や経営班から、こうしてうしなわれたところでは、新しいい きおいで前進を開始した同盟の発展につまずきをひきおこす重 要な原因の一つになっています。このような状況は改善し、今 後のいましめとしなければなりません。
(中略)わが党の一部に生まれている民青同盟への配慮に不十 分さがみられる指導をただすことが、いま強くもとめられてい ます」
この論文は年齢引き下げの規約改正を行なった民青第十二回全 国大会から三年後のことだった。この間、危惧した状況が全国 的に発生し、これ以上放置できないという判断から出したので あろう。
「日本民主青年同盟の70年」(民青中央委員会1966年)によ ると、1973年4月に史上最高を記録したのち、1976年、「同盟 建設の停滞、後退という試練」に直面した。だが機械的卒業は その後もあらたまらなかった。1982年3月の第十五回党大会八 中総では「大衆運動、民青問題についての報告」と討論が行な われ、特別決議もなされている。
「民青同盟の幹部(中央、県、地区の各委員、班長、班委員 )をやっている党員が、民青同盟の活動に専念できるように組 織的に保障することが重要です。この点で、幹部の卒業を機械 的にやることをあらため、幹部を保全することが必要です。
ところが、民青同盟の地区委員、班長、班委員などについて は、二五歳になれば卒業させるのが当然なんだという考え方が ひろく存在し、幹部政策上の配慮もなく、機械的に卒業させて いる例が数多くあります。実態調査の結果をみても、地区委員 の平均年齢は二十四~五歳であり、地区常任委員以外はほとん ど二十二~三歳という状態にあり、機械的な卒業を改善するこ とが重要となっています。
民青同盟の幹部を交代させる場合、事前に相談もせず、党が 決定して民青同盟に事後承認させるケースがしばしばみられま す。これでは民青同盟の各機関に一定の経験と能力をもつ幹部 を確保し、必要な水準をたもつことができなくなります。(報 告書 常任幹部会委員 市川正一)
「一時期にみられた若がえりによる過度の幹部交代や専従幹 部の激減などの傾向にたいしては、七七年の「青年全活」でも 是正と改善の処置が決定されたが、こんごも、その方向にそっ た努力をつよめ発展させる必要がある」(民青同盟についての 特別決議」1982年3月15日 日本共産党第八回中央委員会総会)
しかし、その後の民青は停滞と後退をくりかえすに至った。 「日本民主青年同盟の70年」は年次などもあげ、1976年につづ き、1980年の拡大減少、同盟費の納入率低下、班減少、1983年 の停滞、後退、班活動、同盟結集の質的分野での弱点、1989年 の共産党第二回青年全活での実態のない同盟組織の整理提起、1994 年の民青地区組織の廃止へとつながった。1970年代初頭二十万 人を擁した民青も、いまでは二万人余に推移している。略
なお宮本(忠)や市川は同盟幹部(中央、都道府県、地区役 員、班長、班委員)の年齢が三〇歳までであること、経営班の 場合は対応する労働組合青年部の年齢にあわせて「卒業」させ ること、一律に二五歳で「卒業」させてはならないことなどを 述べていた。驚くことに、地区役員のみならず、班長、班委員 まで三〇歳という。年齢引き下げが提案される前、地区役員、 班長、班委員は二八歳で「卒業」していた。字句のうえからみ れば、対象年齢の「引き上げ」すら行なわれたことになる。
だが、これらの具体的事項は年齢引き下げ問題を討議した10 中委の党員会議ではなに一つ提案されなかった。しかも民青第 十二回全国大会の規約改正では「原則として」という例外規定 すら設けた。ところが、それでも懸念された機械的、輪切り的 「卒業」が全国的に起こり、10年たってもそれがつづいていた 。
宮本論文や市川報告は党中央の命令による実際を無視した年 齢引き下げが、いかに民青の組織体制に重大な混乱をもたらし 、生命力的根幹部分を破壊したか、その自己証明であった。年 齢引き下げという、あとになって「効き目」があらわれる回復 不能のボディブロー的効果は、その後の民青に衰退となってあ らわれた。年齢引き下げの強行が誤りであったことはあきらか である。
1989年の第二回青年全活は、年齢引き下げの強行、学習活動 半分以上または六割、生きがいサークル(サークル協議会)、 大衆運動(青年の要求)の組み立て、学生対策・労組青年部対 策と民青との関係など、それまでの指導という名の党の引きま わし・介入、そのもとで生じた党の青年学生運動にたいする否 定的結果に根本的な総括を加えることなく行なわれたものだっ た。
このとき提起された同盟組織の整理は、七十年代から続いて いた民青内部の矛盾を放置していた結果生じていた、極端な水 ぶくれの組織実態を整理したものだった。しかし、事態の深刻 性を直視しなかったため、その後も減退をくいとめることがで きなかった。
往時と比較し、10分の1に減少した民青問題は党の持続的 ・発展的継承という点からも検討されなければならない。党員 の高齢化はすすんでいる。そのため職場党組織の消滅もはじま っている。党中央は青年支部などで対応しようとしているが、 根本的な総括と対策を必要としている。
(虚構 油井喜夫著)
前回にも増して引用のみにになってしまったが、年齢引き下 げ問題、新日和見主義問題が、その後の共産党、民青の運動に 如何に否定的影響を与えたかの資料の一端になれば、幸いです 。これも党員討論欄へリンクをお願いします。引き続き新日和 見主義の問題点について投稿したいと思います。この総括なし に今後の運動の発展はないと思いますので。