私は、このサイトにおいて史的唯物論の重要性を一貫して主張してきた者です。
>前回(8月1日)、共産党で「史的唯物論に確信を持」たねばならないとの「教育」が施されていることに、疑問を呈する投稿をさせていただきました。
私は、現在赤旗を取っていないので、共産党中央がどういう方針を出しているのかわからないのですが、あなたが言うように「史的唯物論に確信を持たなければならない」と、教育しているのなら、非常に結構なことだと思います。
あなたは若いからご存知ないかも知れませんが、40年ぐらい前の日本共産党では、史的唯物論を学んでいたのです。
私たちが若い頃は、「物の見方、考え方」という、哲学的な勉強をとても重視していました。そして人間味あふれる人となりになることが共産党員の目標とされていました。
ところが、不破氏が書記局長になったころから、哲学は省みられなくなりました。そして、人間味のない党に変身して行ったのです。
当時、ソビエットは、隆盛を極めていましたし、中国も全国を統一したし、ベトナムでは、アメリカが苦戦を強いられていましたし、レーニン主義的社会主義は、日の出の勢いでした。60年安保を通じて、日本の労働者の地位も向上しつつありました。すべてがレーニン主義的社会主義に傾斜をしつつある時代でありました。
党員の学習指定文献には、それまであった、哲学書は排除されて主にレーニン主義が主流になってきました。その結果、頭のいい党員ほどレーニン主義に毒されていったのです。
生産力の変化によって、世の中の仕組みが変わってくるという史的唯物論的に考えるならば、レーニンの革命は成立しないのです。
そのことは、当時の指導者も十分に理解していたはずですが、「資本主義の鎖の弱い環で革命が起きる」というソビエット革命の後追い理論でごまかしてしまったのです。つまり、理論よりも現実に迎合したわけです。
不破氏の現実迎合主義はとどまるところを知らずにその後もつづいてきました。
>さて、「在るものも、思うものも、時代とともに変わっていく」というのが弁証法の考え方であります。
私は、「資本主義は永遠であ」るとは考えておりません。
しかし、同様に、「史的唯物論」なる考え方も、弁証法の振り子に掛けられなければならないはずです。
史的唯物論そのものが弁証法からなりたっていて、振り子理論そのものだと私は思うのですが、今まさに振り子にかけられて、レーニン主義が完全に消滅する時代にさしっかかっているのだと思います。
>腐敗した資本主義を変えていく方法はいく通りもあるはずです。
資本主義と、レーニン主義とどちらが多く腐敗しているかも考えないといけないと思います。
>そして、「唯物史観」が、党中央を物神化させ、党員を信者とする道具として用いられている現状では、党内独裁を容認する「民主集中制」とともに、多様な価値観や人権を尊重することを保障した日本国憲法を守る立場から、これらを批判していかねばならないと考えているわけですが、間違いでしょうか。
ここ数十年日本共産党が唯物史観をなおざりにして、レーニン主義に傾いてきたことが、党内独裁を許してきたのだと私は考えています。今こそ、唯物史観にかえれと、私は声を大にして叫びたいです。
唯物史観を目の仇にするあなたの考え方は間違っていると思います。