>本当に戦争に反省するなら、「哀悼」でなく「騙したことへの謝罪をすべき」である。
というご意見に賛成ですね。以下に私も述べさせていたく。
首相発言の「心の問題」と同時に、総裁選での「公約だから」という論旨はおかし。
「心の問題」だから個人の自由だと言うのであれば、「公約(=履行すべき政策上の約束)」というのは、自民党総裁・一国の首相としての政治過程での条件として参拝を行うのはいかにも矛盾している。
同様に、国民(ないし、過去の国民や戦死者も含めた)に対する首相(行政の長)の行動規範として参拝を行う(・・・参拝推進派はこれを望んでいるが・・・)のであれば、今度は内外から国民が責任を問われる「国の政策」であるから、これを私人(「小泉純一郎」個人)の「心の問題」として消化することは不可能だ。一国の総理の行動ならば法律の留保があるだろう。
何れにしろ、彼自身の「心の問題」で我々国民が責任を問われるいわれは無い。
東条由布子氏(東条英機の孫)のテレビでの発言・収録インタビューでの論旨も理解に苦しむ。
彼女は「靖国神社は現在のままでよい」(一宗教法人のままでよいということだろう・・・)と言いながら、天皇と首相の参拝(国事行為・国家の行為)を望んでいる。また一方で、「A級戦犯合祀は国(当時の厚生省)の正式な行為だ」と言っておきながら「神道では一旦合祀されると御霊は一つであるから分祀は不可能だ」と言うのである。
また、京都産業大学教授で靖国神社の崇敬者総代である所功氏の論旨も理解できない。
所功氏は「戦争で死んだ者は厚生省が公務死と認定し、お祭りすべき者として名簿を送ってきたものである。靖国神社が勝手に選んだものではない。死者を記憶に留め、死者を悼む場所が必要であり、これは行っていかなければならないことである」と。
同様に、参拝賛成の作家上坂冬子氏は、極東軍事裁判が勝者の裁判であり、受け入れられない、受け入れなくてもいいんだ。好きで受け入れたんじゃないでしょ(と、キレ気味だが・・・)。戦犯という主体の名称自体が無効であるとするもの。
自己完結的かつ感情的な東京裁判批判論を展開し「靖国を詣でてなにが悪いのか」と主張する。一国平和主義ならぬ一国靖国主義の展開である(まあ、ここまで首尾一貫していればわかり易い)。参拝賛成派に共有されている感情を代弁している点では注目もされよう。
これらに共通する発言の意図は、靖国神社は戊辰戦争以来の“国家の施設”だと言いながら、同時に“宗教法人”としての法人格を認めさせようというものである。また合祀は、国家の意志に基づく行為(現代で言えば“行政行為”)だと言いながら、今度は儀礼・教義を援用して「“御霊は一つ”であるから分祀出来ない」とし、政治過程の介入を宗教法人の盾を利用して阻止しようと言うのである。
私はこの議論に深入りしたくはないが、どう考えても「靖国神社」を擁護する立場の人の論旨は理解出来かねる(駄々っ子の無いものネダリだと言うほか無い)。
およそ近代国家であれば諸外国だってそう考えるだろう。
“私人の行為”だというのであれば、交通手段・護衛まで含め、すべて私費で行えばよろしい。
小泉氏が参拝するにあたり、国から何らかの給付(交通手段や警護)を受けたり、首相の地位で当該宗教法人側から特別な待遇や配慮(例えば車寄せの確保など)を受けながら「内閣総理大臣名(そのように参拝者名簿に記帳したと言うから)」での本日「8月15日」の当該施設でのイベント(=事象)は「私人小泉純一郎」とは言えないし、ある日時の「イベント(=“事象”)」である限り「慰霊」という「“対象”に対する意思の体現」とはなり得ないだろう。