山川さん、はじめまして。 山川さんは、8月16日の投稿(「滋賀県知事選、市民派勝利?ではない」)で、次のように述べておられますが、その議論は正しいのでしょうか?
「新幹線の新駅は作らない方向で公約を守る様だが県民を守る公約を投げ捨てている。
議会は共産党2議席、選挙線の時から自民、民主党員?応援あり
どこまで頑張れる?
ダムも守れない?時間の問題で・・・
共産党が大きくなるしか~県民生活守れない。」
この議論を私は次のように解釈します。
嘉田知事は(1)県民を守る公約を投げ捨てており、(2)自民党員や民主党員の応援もある、(3)それだから、公約にしている新駅を作らないという公約も守れないということが時間とともに明らかになるだろう、(4)したがって、嘉田知事の勝利は、市民派の勝利ではない、(5)やはり、共産党が大きくなるしか県民生活は守れない。
以上のような私の解釈を前提に述べるのですが、このような解釈を私の周囲の共産党員の皆さんからもよく聞きます。しかし、この議論は根本的に誤っているのではないでしょうか? どこが誤っているかというと、議論全体が逆立ちしているのではないかということなのです。次のように考えるのが正しいのではないでしょうか?
嘉田県政は、共産党が実現できない新駅建設中止に向けて第一歩を踏み出した。このように見るのが現実の正しい理解なのではないでしょうか?
国松県政に対抗して何らかの政策を実現しようとする場合、まず必要なのは国松県政を上回る県民の支持・運動ですが、この肝心かなめのところで共産党は国松陣営を上回ることができていません。一方、嘉田陣営は国松陣営を上回ったうえに共産党が集めた票の3倍も集票しています。これが我々の前にある目下の現実じゃないですか。
山川さんの議論は、この現実から出発しないで、現実にはないもの(「共産党が大きくなるしか~県民生活守れない。」)から議論を組み立てているのではないでしょうか?
現実にはないものという意味で、山川さんの「共産党が大きくなるしか~県民生活守れない。」という考えを仮に山川さんの信念と呼ぶことにしましょう。山川さんはこの信念の見地から現実を見ておられると言えるでしょう。
そうすると、この信念の見地から見ると、嘉田県政の良い部分はやがて消え失せ、否定的に見える部分(例えば、新駅「凍結」ということに含まれる中途半端さ)だけが時間の経過とともに現実化していくように見えます。あるいは否定的に見える部分を促進する可能性のある側面がことさら重要なものに見えるはずです。たとえば、嘉田陣営には自民党の一部が加わっていることなどがそうです。うえに引用した山川さんの議論がこのような評価を示しています。
このように、山川さんの信念に基づく見方では、いやおうもなく、共産党以外の政治運動への不信感がつきまとうことになります。しかし、山川さんの信念に基づく見方で現実を見たのでは、現実を何も変えられないばかりでなく、共産党以外の様々な政治運動と連帯して運動を進めることもできないのではないでしょうか? これが、滋賀県知事選に見られた共産党の現状じゃないでしょうか?
私は山川さんのような考え方とは逆に、共産党単独では自民県政を倒す力がない現実を直視し、嘉田陣営の主要な政策が一致ないしは方向性が同じならば、まず、手を結ぶべきだったと思うのです。そして、まず自民県政を倒す、次に嘉田県政の下では、その積極的に評価できる部分は促進し、後ろ向きの部分は是正するという姿勢で、全体として徐々に嘉田県政を革新県政になるように努力するという政治姿勢が共産党の採るべき政治姿勢だと思うのです。
そうした共産党の政治姿勢に嘉田県政がどれだけ対応できるのか、それは実際にやってみないことにはわからないことで、あらかじめ、共産党県政じゃないから時間の経過とともに自民党と妥協するダメ県政になると決めつける決定的根拠もなければ、必要性もないと思うのです。堂本千葉県政や潮谷熊本県政と同じになるという根拠はありませんし、田中長野県政ほどになるかもしれません。
政策だけを見比べれば、嘉田陣営より共産党の政策の方が優れています。しかし、共産党にはその政策を単独で実現する力がありません。今回の滋賀県知事選は嘉田陣営が勝利したからいいものの、そうでなければ、共産党の選挙方針は10を求めて1をも得られない選挙方針だったのです。私に言わせれば、共産党は嘉田陣営の勝利に救われたと言えるほどです。
おのれの実力をよく見て、主要な政策を1でも2でも実現できるところから手を結び、県民生活を守る陣地を広げていくやり方が必要だと思うのです。10を求めて1をも得られないような本末転倒な選挙戦になるのは、我彼の力関係という現実から出発しないで信念に基づく見地から現実を眺めることに原因があると思うのです。