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一般投稿欄

新日和見主義について(選挙と大衆闘争について)

2006/08/23 風来坊 50代 自営業

 前回の投稿のとき、選挙と拡大と書いたが、選挙(=議会)と大衆闘争ということで書きたいと思う。
 この問題に対する党中央の批判だが、いつ、誰が言ったのか分からない内容を勝手にでっち上げ、こじつけて批判している、ためにする批判としか思えない。 前回に引き続いて遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫の引用から始める。

「活動内容が選挙だけになっている」ということ
 「活動内容が選挙だけになっている」ということもそうである。
 民青第十二回全国大会に対する中央委員会の報告は「同盟五中委のとき、同盟がいっせい地方選挙と参議院選挙に日本共産党とともに積極的にとりくむ方針をとることに反対して、同盟は大衆闘争さえたたかっておればいい、そうすれば選挙でも自然に前進すると主張した」と述べている。
 私は五中委にも参加している。しかし、この報告内容には心底驚いている。すくなくても、この会議に参加した者の一人として、五中委の議場でこのように馬鹿げた発言をした者は一人もいなかったということを指摘しておきたい。それどころか、五中委は一斉地方選挙と参議院選挙にむけ、同盟の総力をあげて奮闘する、堅い決意の場になったと確信している。
 もし、このような発言者がいたとすれば、間違いなく徹底的に批判されていたであろう。だいたいにおいて、こんな意見を吐く者は地区や班にもほとんどいない。
 もっとも、七中委の「大闘争、大拡大」でも触れたように、五中委を準備する過程や、その後の中央常任委員会の作業のなかでどんな論議が交わされたかは部外者である私に判らない。「新日和見主義者」の一人として、むしろ中央常任委員会でどうであったのかを知りたいと思う。
 当時の民青の到達していた水準や党の民青に対する指導内容から見て、選挙期間中に「同盟は大衆闘争さえ闘っておればいい」などと、公然と主張する者が民青の最高指導部である中央常任委員会にいたなどとは到底思われない。
 「反党、反同盟」の「新日和見主義者」を徹底的に論難したい気持ちは判る。しかし、この批判のなかに、「新日和見主義者」が議論した片言隻語だけを都合よく寄せ集め、一方的に歪曲、誇張していたところがなかったのであろうか。
 五中委に出席している一人として、私はその疑問が頭から離れないのである。 日本共産党は六十九年の衆議院選挙で五議席から一挙に十四議席を獲得し、六十年代闘争の締めくくりにあたるこの時期に、選挙でも、明確かつ飛躍的な勝利を勝ちとった。この選挙は七十二年の衆議院選挙で四十議席という歴史的な勝利を含む、七十年代前半の日本共産党の前進と革新自治体の幕開けを告げる選挙ともなったのである。
 七一年の一斉地方選挙、参議院選挙はこの二つの衆議院選挙の中間の時期に闘われ、全国的な勝利と前進を勝ちとった。
 七一年選挙の勝利は六九年の衆議院選挙での土台をうち固めたという意味でも、七二年衆議院選挙の大勝利につなげたという意味でも極めて重大な意義を持っている。
 静岡においても、空白の県議会から一挙に四つの議席を得、飛躍的な前進を勝ちとったのである。
 私は、民青同盟も五中委の方針に基づいて全力を挙げて奮闘し、日本共産党の全国的勝利に少なくない貢献をなしたものと確信している。
 そこで、話を本論に戻したい。
 党中央は「活動内容が選挙ばかりになっている」という、民青の活動に関する評価や「会話」を極めて重視する。しかし、この「会話」は「新日和見主義者」のなかだけで交わされていたのではない。「新日和見主義分派」の内外はもちろん、地区や班でも広範になされていた議論である。
 私は、この議論を決して後向きの議論と思っていない。基本的には選挙でも、要求に基づく活動でも、全同盟員を結集できる活動にしたいという強い動機から出発しているものと判断する。
 七一年の一斉地方選挙、参議院選挙は年明けともに半年間にわたる長期の闘いとなった。民青もこの期間、五中委の方針に基づいて選挙勝利を前面に挙げて闘っている。
 私は「活動内容が選挙だけになっている」という評価について、自分なりの問題意識を持っている。
 当時、民青では毎月同盟員と民青新聞読者の現勢を中央委員会に報告することになっていた。ところが選挙闘争がたけなわになるに従い、少なくない減退が統計の上でもはっきり目につくようになったのである。私は一斉地方選挙が終わって最初に開かれた党の県委員会総会で、この事実を数字をあげて発言している。
 会議に参加していた前県委員長で、中央監査委員の中村義雄が私の発言を大変心配して、なぜ減ったのか、その場で質問してきたことを覚えている。
 一斉地方選挙が終わると、党も民青も引き続く参議院選挙に向かって休むことなく、勝利のための闘いを強化していった。そして、全国区で前回の三名から五名に躍進し、この選挙でも大勝利を勝ちとったのである。
 参議院選挙においても、党の勝利のために民青の果たした役割は極めて大きいものであった。しかし、終わってみると組織活動上の重大問題が浮かび上がってきたのである。それは前半戦の一斉地方選挙でも明確に表われていた組織の減退問題である。
 確かに民青は二つの選挙に勝利するため、全力あげて闘った。選挙を闘った同盟員たちは日本共産党の勝利に確信を深め、活動家として、幹部として大きく成長していったことは言うまでもない。だが、それにもかかわらず、同盟員と民青新聞読者が少なからず後退するという「痛手」を蒙ったのである。
 組織の減退は局部的なものでなく、全国的な現象でもあった。
 経験からすると、民青は選挙準備の期間を含め、選挙を闘うと減る傾向にあることは事実である。
 七一年の選挙闘争の場合、選挙闘争の方針を決定した一月の五中委から、六月の参議院選挙が終わるまでの期間が長期にわたったため、その傾向は一層強かった。
 従って、七一年の六中委から八中委時点での民青の減退を評価する場合、激しくかつ長期にわたった選挙闘争との関係を正しく分析する必要があると思う。

片言隻語の寄せ集めはなかったのか
 青年が民青に加盟する動機は極めて多面的である。
 労働組合や学生自治会の活動のなかで目覚めて入ってくる者、文化活動や各種のサークル活動を通しての者、社会主義の理論を学ぶことを目的に加盟してくる者、生きがいを求めて民青に接近してくる者、あるいは民青のハイキングに行ったらとても楽しかったので加盟したいという者から、一人ぼっちなので友達が欲しいと言って入ってくる者まで全く多種多様である。
 日本共産党の勝利と選挙闘争を闘うことを直接の動機に加盟してくる者もなくはないが、全体からすれば極めて少ない。従って、民青の指導機関や幹部は新しい同盟員の多面性や要求を、いつもしっかり掴んでおかなければならない。
 しかし、県委員会や地区委員会はともすると当面の課題に追われ、指導の一面化に陥りやすい。
 班長や班の指導部も必ずしも経験を積んでいるわけではない。こうした指導が続くと同盟員やまわりの青年の要求に基づく活動がおろそかになり、班活動を困難にする。
 ところが、選挙は待ったなしで、絶対に勝たなければならない。従って、活動の力点はもっぱら選挙におかれる。七一年の選挙闘争はこうした期間が長期に続いたのである。
 私は民青が七一年の選挙闘争全体を通じて、現勢を後退させた原因には、大きく類別して二つあると思っている。
 一つは同盟員とまわりの青年の要求に基づく活動が長期にわたる選挙活動のなかで全体として弱まったことにある。
 民青が五中委の方針で、当面の最大の課題である選挙闘争を前面に据えて闘ったことは全く正しい。しかし、選挙闘争と要求に基づく活動を結合する、総合的で多面的な活動を十分発展させることができなかったことも着目しなければならない事実なのだ。
 こうした傾向が全てでないにしても、いきおい、判っている同盟員を中心に選挙活動が進められ、新しい同盟員や日本共産党がなぜ前進しなければならないのか、その意義を十分掴み切れないでいる同盟員を、事実上おいてきぼりにした活動を長期に続けていたのである。
 「活動内容が選挙闘争だけになっている」という反省はこうした点から見るとき、むしろ重視すべき意見提起であり、積極的に分析してみる必要のある事柄である。
 しかも、この意見が主として地区や班から広範に指摘されていたものであることを強く強調しておきたい。
 もっとも、このことは口で言うほど簡単なものではない。民青の各級組織に安定的に必要な活動家を配置することの重要性は、こうしたことからも要請されている。
 二つには選挙活動の内容そのものについてである。
 多面的な要求で加盟してきた全ての新しい同盟員を選挙闘争に立ち上がらせることは、民青同盟にとって決定的に重要な課題である。これに成功すれば選挙闘争を前進させるだけでなく、民青の各組織と同盟員を政治的にも組織的にも大きく成長させることになる。
 私は全同盟員を選挙闘争に立ち上がらせるカギは、「民青がなぜ選挙を闘うのか」、そして「日本共産党が前進しなければならない意義」をどこまで徹底できるかにあると思う。
 多くの場合、新同盟員は選挙を闘うことを主要な目的にして民青に入ってくるのではない。通常、民青に入った後、学習や行動を通じてその必要性を学ぶのである。だから、判っている一部の者だけで活動するのではなく、最後まで繰り返し繰り返し「選挙学校」や学習会を積み重ねる必要がある。行動も共産党と同じようなやり方に限るのではなく、できるだけ集団的で青年らしいやり方を編み出さなくてはならない。
 選挙は「票」や「ビラまき」など具体的な成果を求められる。従って、ともすると動ける者だけで動いてしまう傾向が支配的になる。もちろん、これも必要なことであるが、しかし、だからと言って選挙の意義をよく捉えられない同盟員のことを放置してしまうと、たちまち不団結や「未結集」を作り出し、脱落の原因になる。
 党や民青の指導機関は教育的機能を有する民青の組織の特殊性を十分考慮し、選挙期間における活動のあり方に特別の注意を払わなければならない。
 七一年の一斉地方選挙と参議院選挙は全同盟員を立ち上がらせる点で、民青の選挙活動のなかに、それなりの弱点があったのだと思う。つまり、民青が日本共産党を支持して闘ったから減ったのではなく、要求に基づく活動が弱まったり、最後まで「選挙の意義」を学習しぬくうえで弱点があったことに最大の原因があったと言える。
 ましてや、「新日和見主義者」が「同盟が一斉地方選挙と参議院選挙に日本共産党とともに積極的に取り組む方針をとることに反対」したなどとする一方的断定も的を得ていないことは明らかである。
 「活動内容が選挙だけになっている」という「意見」や評価に関する私の問題意識の主な部分は、このようなところにある。
 党中央は「新日和見主義分派」の内外で交わされていた、「闘いが弱い」とか「活動内容が選挙だけになっている」などに代表される、新しくも珍しくもない「会話」になぜ強い関心を示したのであろうか。
 やはり、そこにはそうした「会話」をしていた同志たちへの強烈な疑惑が横たわっていたのだと思う。
 党中央はそもそもの出発において、この「分派」を外国勢力と結託した陰険でこうかつな集団であり、非妥協的な対象と位置づけていた。この立場からすれば、私たちが党の路線に反対する「政綱」を背後に抱えていたと見られたのも無理からぬことかも知れない。
 しかし、私の知るかぎりにおいて、そのような「不純」な動機を持つ者は一人もいなかった。
 私は断言できる。三つの「分派会議」を含むその他の「会話」のなかに、公然たる反党的議論を展開したものは一人もいなかった。
 もっとも、党中央は「新日和見主義分派」と認定した一部に、党の政治路線に逸脱する議論があったと断定する。そのことは「新日和見主義分派」の「摘発」後に展開した「新日和見主義」に関する理論問題の諸文献を見れば一目瞭然である。
 だが、どのようなところで、そしてどのような出典のなかで、その「新日和見主義者」が党の政治路線と異なるアンチテーゼを提起していたのか、不分明になっているのは残念である。
 「新日和見主義者」は多分、全員共産党員であると思う。
 たとえ党員であっても何もかも判っているわけではない。未熟ゆえに、不十分な理解に留まっていたり、場合によっては間違った理解のもとで正しくない発言をすることもあるだろう。しかし、だからと言ってそれをアンチと決めつけたり、片言隻語を寄せ集めて反党「罪状」に仕立てあげられたのではたまらない。
 正直のところ、「新日和見主義」と理論問題をあらためて見つめてみると、はたして歪曲的な評価や一方的決めつけがなかったのかどうか、右(この投稿では横書きなので上)の理由から、私には依然として少なくない疑問が残るのである。
 すでに述べてきたように、当時左の立場から、「人民的議会主義」の路線をブルジョア議会主義の粉飾にすぎないとする、反議会主義的な批判や攻撃がしきりになされていた。このことはちょっとした共産党員であれば誰でも知っていることである。
 「闘いが弱い」とか「活動内容が選挙だけになっている」という「議論」になぜ注目したのかを考えるとき、党中央が「新日和見主義分派」のなかに「人民的議会主義」を否定する、反議会主義の「政治綱領」で「結集」する「中核」が存在すると独断していたように思えてならないのである。たしかに当時、学生同盟員のなかには「人民的議会主義」に対して疑問を呈する者もいた。そして、疑問に対する党の指導の仕方に対する反発も存在していたようだ。しかし、そうした「議論」は、組織の活性化をもたらしこそすれ不健全な性質の問題ではなかったものと思う。(遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫)

 一体上の論文のどこに問題があると言うのだろうか。一般同盟員の悩みや当時の選挙闘争の問題点が極めて適切に捉えられていると思うのだが。 では党中央がどのように批判しているのか見てみよう。

 二 査問と心の許せる仲間
 人民的議会主義論批判は中央委員・石田精一(「人民的議会主義と新日和見主義」「赤旗」1972年10月16日 以後石田論文)が行なった。石田は多くを人民的議会主義の解説に費やしている。同論文によれば、新日和見主義は以下のようなことを語っていたという。
「人民的議会主義はブルジョア議会主義、修正主義」
「国会で民主勢力が多数をしめても、反動勢力が暴力的手段にでてくればつぶされてしまう」
「選挙闘争を重視する結果、大衆のなまなましい生活感情や行動エネルギーを徹底的に引出していくことを軽視し、人民をただ選挙民としか見ないことになる」
「共産党はかつて人民の統一と大衆闘争を強調したが、それが「主権在民」の強調にかわり、衆闘争を議会闘争に従属させている」
 また新日和見主義は人民的議会主義を党の革命路線全体を示すものであるかのように拡大解釈し、選挙・議会闘争と大衆闘争を対立させ、民主勢力が国会に進出していくことの意義を否定するとともに、1971年の選挙闘争ではサボタージュをはかる態度をとったと非難した。
 しかし大衆闘争との関連でいえば、地区や班にあった「活動内容が選挙ばかりになっている」「もっと大衆闘争を発展させたい」という願いは、軽視できるものではなく、選挙・議会闘争と大衆闘争を対立させた、と非難できるものではなかった。
 民青は政党ではない。この組織が青年の要求で結集された、教育機能を有する組織であることをみないとすれば正当な視座を失う。また1971年選挙のサボタージュも歪曲である。当時の民青は中央委員会から班に至るまで、選挙を重視する点で意見の不一致はなかった。
 民青はこの年の一斉地方選挙と参議院選挙を全力あげてたたかった。半年間にわたる長期戦のため、要求に基づく活動が弱まり、同盟員や「民青新聞」が後退するという痛手を被りながらも共産党の躍進に大きく貢献した。これらのことは前書「汚名」で書いたとおりである。
 石田論文にによれば、人民的議会主義に反対することが「心をゆるせる仲間」の基準と述べた人物がいたという。査問官たちはこの種の供述を大変好む。彼らは「・・・・に反対した」というまで査問をやめないし、追及した。私の場合も「六中総に反対した」と供述するまで追及された。何度目かのかの供述書の書き直しをさせられているとき、査問官は「だんだん具体的になってきた」とニコニコしながら私を見つめた。
 だれが、なんのことで「心をゆるせる仲間」と自白させられたのか、あるいは本当の供述がどんなものであったのかを知りようもないが、同じ査問体験者として、その情景が目に浮かぶ。こうした供述を引き出したことは、査問がいかに過酷であったかを自己証明しているにすぎない。
 批判者たちの論文をみると、新日和見主義はみさかいもなく、人民的議会主義はブルジョア議会主義などと吹きまくっていたかのような印象をうける。しかし、この路線は党の確定した代議制度にたいする態度であり、会議、その他で疑問をはさむ性格の問題ではなかった。この種の批判は衝撃的で新日和見主義批判に説得性をもたせる材料としてきわめて有効なものだった。
 党中央の批判にもかかわらず、川上徹は多数派を形成することの重要性を説き、この点で反議会主義の誤りを党の綱領を引用しながら述べていた。
 「われわれの前にたちあらわれている可能性の扉(国会 筆者)をまえにしてその扉に手をふれること、手をふれてひらこうとすること、それらの努力をそれ自体を「議会主義」だといって恐れてみずから手をしばることは、まったく誤りであると思う。それこそ反議会主義であり、この点については不破徹三氏の「人民的議会主義」は、われわれの学習に大いに参考になる。(「七〇年代の展望に関するある対話」「青年運動」1971年六月号)。(虚構 油井喜夫)

 川上氏が青年運動で「人民的議会主義」の問題に触れているということは、民青とりわけ学生同盟員の一部が人民的議会主義やそれに関する指導に対して疑問や不満がが持っていたことを意味しているのではないだろうか。しかも、問題なのは、疑問や不満を感じていたのが、闘いの先頭に立っていた学生運動の中心的活動家に多かったことである。
 彼らは反議会主義者ではない。彼らは、毛沢東盲従分子や新左翼諸党派との闘いのなかで、「61年綱領」や「極左日和見主義の中傷と挑発」などのそれまでの党の立場に確信を持っていた。その彼らには「人民的議会主義」が今までの党の路線からの逸脱、変更に見えたのである。
 結局、党中央は、前回でも書いたように身近な要求や政治課題に基づいて大衆闘争を積極的に闘っている人たちを阻害要因と考えたのではないだろうか。
 川上徹氏にしても、油井喜夫氏にしても、選挙や議会に対する同盟員の悩みや疑問、問題点などを、どのように解決したら良いかを模索していたにすぎない。
 共産党の選挙活動をするという事は、自分の立場を公然化することを意味する。新同盟員の場合、その新同盟員の個人的立場(加盟の動機も含む)、そこの民青組織の置かれている状況や取り組む課題などによってやみくもに公然化しても良いというわけではない。
 個人的経験を例に上げると、予備校時代、県段階で予備校生の文化祭のような行事を催すことになっていた。私が登校するとその文化祭の呼びかけのビラを配っていた。それで当然の事として、その文化祭のビラを配布していた人からビラを数十枚もらい、一緒に配り始めた。
 しばらく配っていると、班長が、私の腕を掴みそこから引っ張りだした。「お前気が付かないのかよ。」「いつもビラを配っているメンバーは誰もいないだろう」「何でお前がビラを配っているんだよ。そんな指示したか」「できるだけセクト的要素を出さないように、顔の知られていないメンバーに配らせているのに、これじゃあ台無しじゃないか。」と批判されたことがある。
 また、逆に個人の問題で考えれば、ハイキングや文化活動で加盟してきた同盟員を学習や身近な要求に基づく活動をおろそかにして、選挙活動を参加させることは極めて困難だ。
 油井氏は「民青の指導部や活動家は同盟員の多面性をいつも掴んでおかなければならなかった。しかし、ともすると当面の選挙闘争の課題に追われ、活動の一面化に陥りやすかった。こうした傾向が続くと同盟員やまわりの青年の要求に基づく活動がおろそかになり、班活動が困難になる。」という指摘している。
 これが大衆闘争至上主義とか大衆闘争唯一論としてしか捉えられないならば、共産党中央こそ議会主義に陥っているのではないだろうか。
 七一年の選挙をボイコットし、共産党とともにとりくむ方針に反対したに至ってはためにする非難としか言いようがない。