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一般投稿欄

新日和見主義について(拡大と大衆闘争)

2006/08/10 風来坊 50代 自営業

 拡大と選挙と大衆闘争の関係は民青に加盟して以来、常に議論されてきた。この議論は、新日和見主義事件の遥か以前から誰もが関心を持ち絶えず議論されていた事柄である。今回は拡大と大衆闘争に絞り、拡大と選挙の問題は次回にしたいと思う。以下遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫の引用から始める。

「闘いが弱い」ということ
 「闘いが弱い」という議論は何も後向きの議論とは言えない。当時、中央でも県でも地区でも会議を開けば必ず出てきた意見である。特に青年と直接接している地区委員や班の指導部の同志たちにとって、すこぶる重要な活動上の悩みであった。
 「闘いが弱い」ことを指摘する、地区や班の同志たちの問題意識は多くの場合、闘いをどう前進させるかの積極的な動機のうちにある。
 青年大衆とじかに行動をともにする同志たちは、民青やその同盟員たちが所属する大衆組織のなかで方針を実現する。口では簡単でも、青年のなかで方針を実践することはなかなか難しい。
 彼らが「闘いが弱い」という場合、活動が思うように進まなかったり、青年の要求や関心がどこにあるのか十分掴み切れず、要求に基づく活動が思うようにできない状況を何とかしなければならないという態度表明でもある。従って、活動を前進させるカギはここにこそある。
 指導機関や相談された者にとって重要なことは、本気になって班の同志たちの悩みに応え、一緒になってこれを解決できるかどうかだ。
 確かに一部には活動が困難に陥り、孤立感を深めて敗北主義的な立場から、「闘いが弱い」ことを主張する場合もなくはない。しかし、何と言っても経験も経歴も浅い青年のことである。こんなことでと思うことで停滞したり、不団結になってしまうこともしばしばだ。だから敗北主義だと批判する前になぜそう思うのか、一緒になって原因を見極めることの方がもっと大切である。
 ただ、こうした主張は拡大の方針が提起されたときに消極意見を代表する形で出てくることも多い。いつの拡大のときでも出てくるし、党でも民青でも同じだ。
 むろん、拡大の独自追及を否定する議論は正されるべきだろう。私もこの種の意見の持ち主と拡大のたびに議論したものである。
 彼らは「拡大だけやっても駄目だ」、「青年を結集する活動をやらないと対象者が出てこない」、「闘いが先だ」、あるいは「まず教育をやってからだ」と主張する。
 しかし、良く聞いてみると拡大そのものを否定する者は一人もいない。それどころか拡大したいと願っているし、一人でも多くの仲間を作りたいと思っている。ここのところが非常に重要だ。彼らの主張にはなるほどと思われることがいっぱいある。
 例えば、前に大量に拡大したのだが、新同盟員の要求に基づく活動ができなくて、みんな脱落させてしまったとか、せっかく加盟させたけれど攻撃を喰らってやめてしまったとか、教育もしないで「あれやれ、これやれ」の押しつけ指導をしてきたため、嫌気がさしてやめてしまったとか、攻撃で班が青年から浮き上がり、孤立してしまったとか、等々。
 つまり、拡大に消極的になる理由も背景も千差万別なのである。だから、これはこれで、どうしても克服しなければならない課題である。
 地区や班の同志たちは、民青が闘いでも拡大でも前進を勝ちとるため、こうした悩みや障害を取り除きたいと真剣に考えている。だから、この点を先ず理解することである。そして、拡大も前進させながら、悩みも解決できるよう、一緒になって考えていくことが指導機関や活動家に求められている。
 単に拡大の独自追及の重要性や意義を述べるだけでは地区や班の同志たちの「やる気」を引き出せないし、要望に応えた指導にもならない。要は青年とじかに接触しているところで、大衆闘争や要求に基づく活動の前進を願っている同志たちの悩みを解決することが、拡大でも闘いでも新たな前進を切り開くカギであることをしっかり掴むことだと思う。
 民青第十二回全国大会への中央委員会報告は次のように述べている。
 「十一月の同盟七中委では、大衆闘争の重要性を理由に同盟の拡大を独自の課題としてとりくむことに反対し「大闘争、大拡大」などといいながら、事実上同盟拡大にとりくむことを放棄した。」
 私は七中委に出席している。そしてこの会議で断固として拡大をやりぬく決意と方針を発言し、大会に至る中間的な目標を達成している。当時、県活動者会議に取材に来た民青新聞の記者が活力ある前進ぶりに目を見張っていたのを覚えている。また、全国的にもいくつかの県組織で意義ある前進をかちとっている。
 七中委では闘いを前進させることと、拡大をかちとることとを相乗的に発展させることの重要性を指摘する同志はいた。しかし、それは何も目新しいことではないし、そのこと自体はあたりまえのことである。
 私は七中委前後の中央常任委員会のなかで、闘いと拡大の関係をどのように論議していたか知らない。ただ、はっきり言えることは、七中委で、大闘争をやらなければ拡大は進まないなどと、馬鹿げたことを言う者は一人もいなかったということである。
 報告は「大闘争、大拡大」と言いながら、事実上同盟拡大にとりくむことを放棄したと言っているが、一面的な断定であり、首をかしげざるを得ない。
 事実は全国的にも貴重な前進を開始していたのである。しかも、「事実上」という言葉も、「新日和見主義者」の拡大に対する考え方を批判するうえで曖昧な表現となっている。
 民青は全国単一の組織であるから、県委員会はもちろんのこと中央委員会にも、地区・班での闘いや拡大の論議の状況、傾向が反映される。
 「闘いが弱い」とか「要求に基づく活動ができない」とか「闘いを広げないと対象者が出てこない」などの意見や悩みは、組織上の課題として地区や班に広範にあった。
 なかには動機において正しくない立場や傾向もあるだろう。しかし、たとえそうであったにしても、組織の内部から出てきたものであるならば、上級機関はそれを取り上げて解決のための必要な方針を持たなければならない。
 「闘いが弱い」ということは、裏返せば「闘いを大きく広げたい」ということである。地区や班の、この種の意見や考え方を、闘いを前進させる積極的な方向で上級機関は受け止めるべきである。
 民青第十二回全国大会の中央委員会報告によれば、七中委の「大闘争、大拡大」の方針は「新日和見主義分派」が提起したことになっている。この方針を提起するにあたって、中央常任委員会内部で「分派」に属さない正しい「部分」との間でどのような「激論」があったか知らない。
 しかし、如何なる論議があったにせよ、組織的には中央常任委員会の一致した結論として七中委に提案されたものである。この点は是非はっきりさせてもらいたいものだと思う。
 私は七中委で「大闘争、大拡大」の方針が決定されたのは、地区や班にあった、右(この投稿では横書きなので上)のような意見が中央常任委員会にまで反映された結果であるとまで主張するつもりはないが、さりとて全く影響の埒外にあったとも言えないと今でも考えている。(遺しておくこと ある新日和見主義者の回想 油井喜夫)

 一体この立場のどこが誤っていると言うのだろうか。末端組織の同盟員のぶつかっている問題点も把握しており、油井氏が一般同盟員とも、結び付いている事を示している。このような観点で指導が貫徹されていれば、今のように十分の一にまで民青が激減するという体たらくは防ぐことができたのではないかと思う。
 このような有能な人材の多くを民青は新日和見主義事件で失った。

 それでは共産党中央はどのように批判していたのか見てみよう。

大衆闘争唯一論
 一〇中総は、新日和見主義は闘争全体のなかから大衆闘争だけを抜き出して絶対化し、選挙や議会闘争、党建設や理論・政策・宣伝活動をそれに従属する第二義的課題として軽視したという。そして、この誤りは新日和見主義のもっとも重要な内容をなすものであり、大衆闘争唯一論ときめつけた。
 しかも、それは階級闘争から国家権力にたいする政治闘争やそれを推進するための党建設を切り捨て、せまい意味での大衆闘争を社会発展の原動力とする点で、史的唯物論の根本的逸脱であり、漫画化であるとまで論じた。まさにすさまじい批判だった。
 また、これに先立ち「日本共産党は大衆闘争にとりくまない」というデマや中傷を飛ばしていたとか、大衆闘争を政治闘争や拡大と対置させ、理論闘争・政治闘争・経済闘争の三つの側面をもつ階級闘争をせまい大衆闘争に還元させたと避難していた。
 当時、民青の地区や班は大衆闘争をどう発展させるか真剣な討議を重ねていた。それらは沖縄闘争から職場・学園の要求問題など広い範囲にわたっていた。大衆闘争の発展は口でいうほど簡単なものではない。さまざまな反共・反民青攻撃で思うようにすすまないのが普通である。だから、たたかいをもっと大きく前進させたい、という願いから出発した悩みでもあった。
 それは以下のような言葉に現れていた。
「職場の青年の要求がとらえられない」
「たたかいが弱い」
「攻撃で浮いてしまった」
「結びつきが弱いので拡大が困難だ」
 悩みは県委員会に直接もちこまれ、中央委員会の議論にもあらわれた。しかし、そこに「共産党は大衆闘争をたたかわない」とする意見など入りこみようもなかった。だが党中央はこうした悩みや願いをふくめて党にたいする悪質なデマ・中傷と判断するに至った。
 七中総は、新日和見主義が議会活動重視のなかに大衆闘争軽視のブルジョア議会主義、平和革命唯一論の日和見主義があるのではないか、とみていたという。しかし断固として沖縄闘争をたたかいたいと願ったことが、党の方針に反していたとも思えない。大衆組織の幹部が大衆闘争の重要性を強調するのはしごくあたりまえのことで、それはある意味で大衆組織の死活にかかわる問題である。
 民青の月刊誌「青年運動」に階級闘争の三つの形態を論じた論文がある。
 「階級闘争は、経済闘争、政治闘争、イデオロギー闘争の三つの形態をとってすすめられるからこそ、それぞれの形態の闘争は、それぞれ重視されなければならない。にもかかわらず三者の闘争で決定的な意義をもつものは、労働者階級の終局的な解放としての国家権力をかちとることである政治闘争にあるというのは、マルクス・レーニン主義の真髄にほかならない」(池山吉之助「青年戦線の統一と民青同盟の活動」「青年運動1971年11月号)(注 池山吉之助 新日和見主義事件で処分 注は風来坊)
 また民青中央常任委員・川上徹は、マスコミやジャーナリズムが共産主義の理論や理念をゆがめて宣伝している情況のもとで、一定の高い認識へ到達するための独習、学習の意義を強調しながらレーニンの「何をなすべきか」を引用してつぎのように述べた。
 「マルクス主義のイデオロギーは、自然発生的な意識の「外部からだけしか」入らないものであることをあきらかにしている。でもその部分は、正確に引用するとつぎのようになっている。
 「階級的、政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。この知識を汲みとってくることのできる唯一の分野は、すべての階級および階層と国家および政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である。
 労働者に政治意識をもたらすためには、社会民主主義者(つまり共産主義者)は、住民のすべての階級のなかに入っていなければならない。自分の軍隊の諸部隊をあらゆる方面に派遣しなければならない」(中略)つまり政治的、社会的経験のなかで、自分と「すべての階級および層と国家および政府との関係」の認識のなかからしか階級意識はもたらされない、といっているんだと思う。
 そのためには(中略)同時に政治闘争をつうじて自分と社会との関係を「一つの絵」(レーニン)にえがききるようにすることが大切なんだ」。(七〇年代の展望に関するある対話」「青年運動1971年六月号)
 これらの文章は階級闘争の三つの分野を正しく把握しながら国家権力にたいする政治闘争の意義を説いていた。党中央の批判はこの点でも行き過ぎをまぬがれえない。
 民青中央委員会は多様な角度から大衆闘争の諸問題を討議した。しかし大衆闘争だけやっていれば事足りる、という議論などまったくなかった。だいたい、この手の議論は地区や班にもみられないものだった。
 七〇年安保から沖縄返還闘争、新左翼諸派との関係でも、どの勢力が青年学生を引きつけるかが直接的な課題となっていた。そのため、たたかいでも拡大でも急速な発展がのぞまれていた。
 民青が「大闘争、大拡大」の方針をかかげたのもこうした点にあった。しかも民青中央委員会の大衆闘争論はもっと分析的で、あっちが先とか、こっちが先とかの単純な唯一論にはなく、拡大や学習も同時に追及しようとする、真摯な姿勢に貫かれていた。大衆闘争唯一論で塗りつぶすとすれば、その批判は著しく歪曲されたものになる。
 十中総は、新日和見主義とのたたかいの教訓に大衆運動と政党の関係をあげていた。
 「大衆団体は、その組織の性格からいって、自民党の反動政治およびこれに同調する他党の誤りについて、無批判であるべきだとか、大衆団体の運動では、すべての野党を同列視して、なにが大衆の根本的利益を代表する真の革新の立場であるかを不問に付すべきだなどとすることは、大衆運動を誤った政治的中立主義の道にひきいれることにほかならない」
 これは注目すべき叙述である。意外だったのは新日和見主義批判のなかに出ていることだ。なにをさしていったかわからないが、この種の意見の持ち主がいたというのか。それとも被疑者の探索の過程で、この傾向に警告を発する意味でいったのか。事件の波紋は思わぬところまで広がっていたのかもしれない。
 だが、これは民青の新日和見主義にはとうていあてはまらない。民青は規約上、共産党を公然と支持する唯一の組織である。新日和見主義と政治的中立主義もわかりにくい事柄の一つである。(虚構 油井喜夫)

 以上みてきたように、共産党中央の批判は根拠がないと言わざるを得ない。
 では、何故このような処分をおこなったのだろうか。

 新日和見主義事件に連座した民青の幹部たちのほとんどが1960年前後の時期に入党した。彼らの党活動家としてのメンタリティーの骨格は、戦後最大といわれた左翼運動の高揚期に、その渦中で形成されたものだった。彼らは、党の要請に応じて、それまでの職場をなげうち、あるいは卒業後の進路をあきらめ、運動と組織の専従者となる道を選んだ。つまり、この世代の党員たちには、党に対してこうした強い「思い入れ」を持つ者も多かった。共産党の存在は、自分の一生をかけた命がけのものであったと言ってもいいだろう。
 「事件」当時の民青の各県組織の幹部たちは、六十年代初期、職場や地域で民青組織の創設に直接関わった者たちが多い。彼らは、その後の日韓条約反対闘争(1965年)、職場における反合理化闘争などを通して、右肩上がりの組織の伸張を一貫して下で担ってきた。それだけに、ある日突然査問に入り反党分子扱いされ、さらには追放されたことに対する戸惑いはきわめて大きなものであった。
 さらに未練も残った。それは被査問者たちは共通して、査問をとおして屈辱と敗北感をもちながらも、なお革命への夢と信念においては何一つ敗北していなかったからである。もし彼らが自分たちの人生観の核心部分を現実社会によって否定され、にっちもさっちも行かなくなって敗北したのであったとすれば、つまり、革命への道筋を提示した党の綱領に疑問を抱きこれではやっていけないと思ったのだとしたら、ああまで申し合わせたように党に残留することはなかったであろう。
 党の中枢が綱領をなしくずしに修正しているのではないかと疑問を持つことはあっても、綱領が「おかしい」などとは思わなかった。言葉を変えれば、彼らは六十年代に描いた夢の行く末をもう少し見届けたかったのであった。そのためには、党の存在が不可欠であり、したがって、自分自身のために、もうしばらく党に残っている必要があったのである。
 このままでは立ち去り難かったのである。自分が立ち去ることは「六十年代」が立ち去るような感覚にとらわれたのだった。未練とはそういう意味である。
 自分たちは、分派活動を理由にしてやられた。だが、それは「別件逮捕」と同じようなものではなかったか。別件で夢がつぶされたように思えた。
 こうして見てくると、新日和見主義事件における真の被告は、個々の被査問者というよりは六十年代に進行していた運動そのもの、運動の中にあったある種の傾向であった、と考えるのがいちばんわかりやすいのかもしれない。(略)
 査問の網は運動全体に被せられたものであった。そしてその運動は、六十一年綱領のもとに党自身が創り上げてきたものであった。のちに宮本顕治は新日和見主義「一派」を「双葉のうちに摘み取った」と語った。それはおそらく彼の実感であったろう。だがそもそも運動が双葉のうちからこれに水をやり育ててきたのは党自身であったことを忘れてはならないだろう。新日和見主義とレッテルを張られた果実は、何よりも六十年代の日本の共産主義運動の樹木で芽を出し実を結び大きくなった。七十二年から遡る十年ほどの時期のうちに、その果実は徐々に熟成していった結果だったのである。(査問 川上徹)

 当時、共産党は選挙で躍進を続けていた。そのため穏健なイメージに脱皮することを狙っていた。処分された人達は職場や地域で民青の創設に関わり、あるいは日韓闘争や職場の反合理化闘争を通して党や民青の組織の建設を担い、あるいは当時の学生運動の盛り上がりを支えていた中心的な活動家だった。共産党中央は、右旋回して、議会主義路線に舵をとるのに、六十年代からの運動を支えてきた人達、職場で、学内で、街頭で急進的に運動を展開する人達が阻害要因になると考えたのではないだろうか。

 だが、新日和見主義事件は、何よりも党と民青自身にとって大打撃となった。最も戦闘的で献身的な活動家を大量処分した結果は、組織の急激な衰退である。
 同盟員の悩みを聞き、条件や問題点を自主的に考える民青幹部はほとんどいなくなった。残ったのは共産党中央の言いなりになるイエスマンだけである。
 問題点はこれだけではない。大衆闘争を前面に押し出すということは、現実に大衆闘争を組織できる力関係が確立されていることを意味する。その結果、この処分は民青の拠点を直撃した。デモや集会、会議、アジトなどに行くと以前、常時いた中心的な活動家が数名いないのである。全く無傷だったのは、弱小で数十名しかいない大学だけだった。これでは殆んど影響力を行使できない。
 そのうえ、大衆闘争の重要性を強調する人は、大衆に影響力や信頼があり、既に大衆闘争を組織しているか、大衆闘争を組織できる力量のある人だ。この部分が処分された場合、大衆の組織化は困難をきわめる。また、大衆闘争の先頭に立って闘っていた活動家が査問、処分されたのでは、大衆闘争することそのものに消極的にならざるを得ない。

 政治課題、学園闘争、労働組合や学生自治会などでの青年学生の要求に基づく闘争などの大衆闘争に消極的になって、選挙と組織拡大のときだけ呼びかけても、職場や学園で攻撃を受けた場合、党や民青だけにに対する攻撃としてしか見なくなり、民主主義や権利に対する攻撃ととらえなくなる。

 新日和見主義事件で、否定された政治課題、青年学生の要求に基づく労働組合や学生自治会を基盤とした大衆闘争の再構築をはからない限り、衰退していくだけだろう。事実上の再建大会となった民青第六回大会(1960年)当時は、同盟員数は数千名だったと聞いている。まだ可能性は残されている。