こちらの地方でも9月になってからまた酷暑がぶり返し てきた。日付変更線を越境しての接近中(?)の台風もあって 、気分的にもすぐれない。うぅぅーん・・・
さて最近なにかと忙しいためもあって、サイト上討論の流れ
を充分に把握・吟味し切れていないのが恥ずかしいが、いわゆ
る科学的社会主義に関する討論が段々と不自由モードに傾斜し
つつあるように感じる。少しでも科学的社会主義なるテーマ自
体を俎上に乗せただけでまだそんなものに騙されているのか、
と言いたげな論調、もしくは言外にほのめかす。そういったト
ーンの投稿が時折り見受けられるように感じるのだが・・・。
このサイトは、党員欄・一般欄はもとより、それぞれ主題別
テーマ欄に即した各自の本音・主張を、党中央に遠慮なく討論
できる場のはずである。このことは贅言を要せずわかりきった
ことだと思う。
「科学的とは」とか、「哲学とは」などといった科学的社会
主義観(それに対する考え方を含む。)は、たとえ現役の共産
党員であっても各自が皆、理解の仕方・範囲・見解が違って当
然だろう。青年支部や民青の班に、たとえば7人の党員が居れ
ば7人ともそれぞれ見解が違うのがむしろ知的に健全のはずだ
ろう(実態はそれには程遠いのが悲しいところだが。)。だが
、班や支部を視ると多くの実態はそれへの態度が“金太郎飴”
よろしく異口同音に同じような無難な発言どまりになっていて
キモい(気持ち悪い)。つまり、《党許の哲学》そのまま肯定
主義。発言を促す前から回答趣旨は想定範囲内。そういったわ
けだから、科学的社会主義なるイディオムを口に(ここはネッ
ト上サイトなので書込みか?)しただけで「あぁ、またか」と
ばかりにアナクロとみなされてしまう。かくて、書き込みを欲
する「潜在的な」論者諸氏が“自主規制”なる心理的萎縮で投
稿デビューを躊躇う結果を招来しかねないのではないだろうか
。
だが、これでは、党が言うところの科学的社会主義に全面反 対、もしくは一部反対、更には「いやいや、ちょっと待ってよ 。こんなオルタナティヴもあるんだけれどねぇ」、という方々 までもが冷静にネット上討論で自説をぶつけたいと思っても断 念させてしまうことにつながらないだろうか。
どこの党かは忘れたが、かなり前に「文民統制」を議論しよ うとしただけでたちまち○○党員仲間から糾弾(激しく非難) されたとかいったエピソードを聞いたことがある。なんでも糾 弾理由が「そんな趣旨を口走っただけで軍国主義ムードが党組 織にひろまりかねないから。よって、忌まわしい語は使うべき じゃない」なのだったとか。時は1970~80年代中葉だっ たと記憶があるが、こういった過去例のように、当時文民統制 に反対か賛成か留保かの別なく、言論の自由がある以上は冷静 で真摯な発言ならばその類いの発言であっても傾聴してみる、 批判したいのであれば聴き終えてからじっくり向かえばいい。 少なくとも、最初から討論に水をさすべきではないだろう。
だから、たとえ科学的社会主義なる《党許の哲学》を擁護す
るスタンス、つまり、現時点の党側公定解釈に立つ、言うなれ
ばゴリゴリの守旧派的イデオローグの方々が居られる場合であ
っても、そういう方々を正当な理由なく排除する姿勢はよろし
くない、と言いたいだけなのである。最低限のネチケットやル
ールを守っている限りは。
そればかりかむしろ、ゴリゴリの守旧派イデオローグに対峙
する複数の批判論客がさまざまなアングルから批判を向けるこ
とで、党側公定解釈への冷静かつ辛辣な理論的批判陣営の「層
」を厚くするプラス効果がもたらされるとも言いうるのではな
いか? 要するに、ものは考えようだと思う。
この拙稿も急いで執筆中なので申しわけないが、以上、1点 だけふれさせていただいた。
現役党員諸氏からは異論が出るかもしれないが、「科学的」
と称してはいても基本的にはレーニン・スターリン期の旧ソ連
のそれに忠実に則った《党許の哲学》と史的唯物論、旧来のマ
ルクス経済学、旧来の社会主義思想が渾然一体となって不可分
に結合した党許のディシプリンを指し示しているのではないか
、と、近経出身のぼくは理解している。晦渋で排他的な唯物史
観“信者”にさせられた者は、ほぼ例外なく、現代哲学の数多
くの諸学派(つまり、マルクス系以外の哲学諸派)を、乱暴に
も、取るに足りぬ“ブルジョア観念論”とばかりにばっさり吐
き捨てる。
彼らのこの態度は、非主流派経済学の諸派に対しても同様で
ある。別に、イエスマン(ヒラメ)が何を好み何を嫌おうと勝
手だが、他諸学派を批判したいのなら「理論的にここはこうだ
からこのように誤謬を孕んでいる、ワタシならそこはこんなふ
うに考えるけれども如何か」、云々といった作法で批判すれば
いいのに、それをしない。他流試合をしたがらないのだ。党綱
領が骨の髄までこびり付いていて条件反射的にしか対応できな
いのかもしれないが・・・
マル経論客の忌み嫌う「現代経済学」といっても、学派の数 はこれまたとても多い。「そう言っても所詮はブルジョア経済 学に過ぎないじゃないか」などと十把一絡げできると盲信して いるのは今ではマル経サイドだけである。のみならず、マル経 が理論的に超克し得なかった領域については相互補完的に共同 研究などで異派間協力しうる学派もいくつか散見されている。 仮に他流試合を申し込まれたとすれば(「仮に」ではなく実現 してほしいものだ。)マル経陣営は峻拒することなく応諾すべ きだろう。新しい視点に目覚め、今まで顧みられもしなかった 何らかの理論的ブレイクスルーが惹起される可能性だって「無 い」とは断言できないのではないか?
たとえ、党を取り巻く客観的諸条件が激変し、人びとの未来 への期待係数がしぼみ、ひろがる閉塞感に人びとが呻吟しよう とも、「党のイデオロギー路線・理論に基本的な瑕疵はない」 旨を党中央が言い張るかぎり、その独善性は正当化されてしま う。「そらみろ、やはり正しいじゃないか。もっと科学的社会 主義を勉強しろ!」と“他人の轍を踏む”よう薦められる。こ のようなファナティックな反応を呈しがちな人が多いほど、新 自由主義陣営は内心ほくそ笑んでいるのかもしれないのだが・ ・・
何ヶ月か前、どなたかが「ゆいぶつろん」を「ただものろん
」と喝破されていたが、正鵠を得たご指摘ではないかと爽快さ
を感じたことを想い出す(俗信・迷信か、くだらないかは、偏
向した人びとが即断しうる性質のものではないと思う。L.ヴィ
トゲンシュタインは“語りえぬものについては沈黙せねばなら
ない”などと知的謙虚さでもって名言を残している。)。
占星術やお御籤に興じる同世代の党外一般人を「かわいそう
に」と蔑むことしかできない、ただもの論者。
口を開けば「憲法、平和」と言うそのわりには9条(および
、せいぜいのところ前文どまり)ばかりで現実の人権問題や統
治機構論に無関心。
自衛隊活用合憲論に異を唱える○○君を異常者呼ばわり。
選挙一辺倒主義を批判する人に対しては“敗北主義者”呼ばわ
り。
民青の仲間複数人が困難な問題を抱え悩んでいてもなんのかん
のと口実をつくってソソクサと立ち去る人間味の希薄さ(実に
冷たい)。
とりわけ、何らかの共同企画が成功すれば「ワタシのお陰」で
逆に失敗したら「○○さんのせいだよ」で専従としての指示責
任は棚上げ、責任転嫁。
企画が終っても仲間へのねぎらいの一言すら言わずソソクサと
帰宅するロボットのような“人間感覚”。
等々 等々・・・
もしも《党許の哲学は常に全て正しく、その他のいわゆる“ 観念論の哲学”は全て資本家にヨイショするチョーチン産物に 過ぎぬ》とシタリ顔の方が居られたら、こう問いたい。「では 、ご立派であるはずの組織がこんなに病んでいて低迷している のは何が主たる要因だとお考えですか? 党許の哲学で解決の 緒がつくんだったらぜひ教えてください」と。 ゆいぶつろん ならぬ「ただものろん」なる喝破は、冷たい組 織を分析し、改善策を皆が考察する上で有為なツールのひとつ に違いない、と思う。