ある田舎の弁護士のブログに「正論」を発見した。
多数者の価値観に同調しない少数者の価値観をどこまで保護 するかは、常に難問だ。国旗や国歌が、どんな国にも必要であ ることは、ほぼ誰もが認めるだろう。また、いま国旗を選ぶと したら、大多数の国民が日の丸を選ぶことも、間違いあるまい 。国歌については、私はもっと歌いやすく元気が出る歌を望む が、押し付けさえなければ、君が代にそれほどの抵抗は感じな い。しかし、日の丸にせよ、君が代にせよ、これを受け入れる ことを公の場で表明せよ、従わなければ、ためにならんぞと強 制されるのは、まっぴらである。判決は、「宗教上の信仰に準 ずる世界観、主義、主張に基づいて」、国旗や国歌への同調を 強いられたくない教職員が現実にいると述べているが、私はそ れほど思い詰めた信条や価値観から、日の丸や君が代を、きっ ぱりと拒否する人は、むしろ稀だろうと思う。
世界のどこにも、過去に何らかの傷を持たない国はない。ア メリカなど、今も昔も国家の名において、世界中にどれほどの 不幸をまき散らしているか。それを上回るほどの貢献もしてい るとは思うが。イギリスのユニオンジャックも、フランスの三 色旗も、侵略、殺戮の旗印だった過去があるはずだ。だから自 国の過去に痛みや恥を覚える部分があるからと言って、過去の すべてを否定したいとか、否定できるなどとは、ほとんど誰も 思わないだろう。しかし、国旗・国歌への同調が、忠誠テスト として強要されるとなったら、それだけで、これを拒否する正 当な理由があると私は思う。日の丸、君が代を内心でどう評価 しているかは、この場合、問題ではない。そういう内心の領域 に人事権を持つ管理者が踏み込むことが問題なのだ。
内心の自由を無制限に容認すべきだとは、必ずしも思わない 。人種差別やテロへの同調につながる思想に対しては、その蔓 延を防ぐ方策も必要だろう。日の丸、君が代への評価について は、これを強制的に開示させることに、いかなる正当性がある か……ないというのが裁判所の結論であり、私はそれを全面的 に支持する。日の丸、君が代の支持者が、この判決に不満を持 つとしたら、それは自らの主張の普遍性についての自信を欠く と言うべきだ。むしろ、日の丸、君が代に対して失礼である。 少なくとも日の丸については、おそらく四分の三以上の国民が 、国際競技で日本チームを応援する際に、勇んでこれを手にす るだろう。日の丸への起立を管理者に強いられたくない職員で も、スポーツの応援でなら気にしない人の方が多いのではない か。それで何が不足かと思う。
この判決が確定することを切望するが、この先は、また茨の 道だろう。東京地裁がいい判決を出すと、たいてい高裁がこれ を覆す。むろん高裁でも、いい判決が出ることもあるはずだが 。この事件は、どの道、最高裁まで行くに違いない。最高裁の 道理の感覚に期待を寄せるしかない。憲法の番人の伊達には抜 かない伝家の宝刀が、錆びついた赤いわしになっていないこと を祈るばかりだ。オウム真理教の犯罪が発覚して以来、日本社 会の自由さは、次第に失われて行った。さらに無法国家に君臨 する金正日の呪いが、日本の民主主義を窒息させかけている。 石原都政下の都教委の暴走に、いま歯止めをかけなければ、次 にくるものは奉安殿の再現になりかねない。「奉安殿」という 言葉を知る人が多いとは思えないから、最後にWIKIPED IAの記事を抜粋しておく。
奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前戦中にかけて各地の学校 で、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物の こと。御真影自体は大正~昭和期にかけて下賜されたため、奉 安殿の成立もその時期と推測される。四大節祝賀式典の際には 、職員生徒全員で御真影に最敬礼し、教育勅語が奉読された。 また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服 装を正してから最敬礼するように定められていた。関東大震災 や空襲、校舎火災の際に、御真影を守ろうとして殉職した校長 の美談が、いくつか伝えられている。